屍人と少女、それから化猫

藤野 要

プロローグ


 腥い風が流れた。

 瞬きの間には流れ過ぎ、右半身に衝撃と激痛が襲う。

 耐え切れず力を失い倒れた先は、生暖かくて鉄臭い血溜まりの中だった。


 何が起こったのか理解出来た頃にはもう何もかも手遅れで、焦燥と後悔が胸の内を塗りつぶした。


 右側の大半、腕の感覚が無い。


 焼けるように痛む右肩に左の指を這わせると、どくどくと止めどなく流れる液体と剥き出しになった肉の感触がした。その先はいくら手を伸ばしても何も無い。


 通り過ぎ様に腕を盗っていったのは血と泥で汚れた巨大なバケモノだった。

 身体は虎、後ろ足は蹴爪の付いた猛禽の足に鱗が付いたひしゃげた尾。眼があるはずの場所は窪んで皮で塞がり、代わりにぎょろりと額に一つ。零れそうな程に見開かれたそれは忙しなく動いている。


 そして何より周囲の建物を軽く越えるほどの巨体。これが、街中で何の兆候もなく突然地面から湧いた。押し固められたコンクリートを容易く突き破って。


 下顎まで伸びた牙が生えるその口には見慣れた腕が咥えられている。ぶらりと情けなく垂れ下がったそれは耳を塞ぎたくなるような音を立てながら血みどろの口の中に消えていった。それを認めると同時に諦めの感情が抑えきれず湧いてくる


――もう、助からない。


 酷い耳鳴りがする。

 自分を襲った妖の唸り声も、一緒にいた仲間たちの怒号も、周囲の人々の悲鳴も。近くに居るはずなのに頭の中で響く轟音にかき消されていく。

 ぼやけた始めた視界を鮮明に戻そうと必死に目を凝らし、ようやく映ったのは上から降りかかる巨大な影。

 喰うためか止めを刺すためか、どちらにしても見逃すつもりはないらしい。見逃してくれたところでどうにかなるとも思えないが。




 死に向かう恐怖よりも、無造作に積み上がっていく死の光景が何よりも恐い。

 一人、一人と顔見知りが喰われ、散らばっていった。今はもう、この血の池に立つのは妖のみ。

 次は、誰が喰われるのだろう。

 

 見たくもない両親の顔が脳裏を過った。家に仕えていた連中、憎たらしい友人。

 そしてーー



 歯を食いしばって己を奮い立たせ、残った右腕に力を込める。


(せめて、傷一つでも)


 冷たくなっていく掌を拳に変えて、それを渾身の力で地面へと叩き付けた。

 拳の周囲から生えた鉄塊が、自分に降る影に向かって突き刺すように向かっていく。


 土を金属へと変換する、妖術。


 自身が生まれ持った異能力で、妖に対抗する唯一の力が妖術だった。


 だが、すぐ側にいるはずなのに手応えがまるでない。どこまでもどこまでも吸い込まれていくように、迫る大きな黒い影の中に消え、そして粉々に砕ける感触が鉄塊を通して指に伝わってくる。


(噛み砕いた、のか――)


 最後に思考を支配したのは、絶望と深い遺恨の念。最後の足掻きですら無駄に終わった、その無念に苛まれた。

 生臭い風が自分に降りかかるも、もうどうにも力が入らない。


 程なくしてやってきた一瞬の衝撃と共に、必死に保っていた意識はあっけなく終わりを迎えた。




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