5.狂牛《ボヴィーノ》
絵奈が現れなくなってから一週間が過ぎた。
その間、御厨高校は期末試験期間へと突入し、天道と霞の
そして、土曜日の夜。二人は久々の
箱根料金所から湖尻峠の分岐点の間をたっぷり三往復して、今、箱根料金所に戻ってきたところだった。
「ん……?」
いつもの路肩にエキシージを停めた天道は、少し離れた場所にポツンと停まっている車に気付いた。
直線的ラインで構成された
ランボルギーニ・ガヤルドLP570-4スーパーレジェーラ、だ。
色はオレンジ。ナンバーはとちぎ、だった。
「遠征組か?」
珍しいナンバーに疑問を抱いていると、突然、ガヤルドの右ドアが勢いよく開いて、中から女の子が飛び出してきた。
「絵奈!?」
天道が驚いていると、今度は左のドアが勢いよく開き、中から男が飛び出してくる。
年の頃なら二十代中盤。赤茶色の髪と趣味の悪いシャツを着たヤンキー風の男だ。
「待てよ!」
逃げようとする絵奈の手首を掴んだ男は、そのまま抱きしめようとする。
「駄目……そういうのは
「いいだろう? 先払いって事でさ」
絵馬は嫌がったが、男は無理矢理抱きしめると臀部へと手を伸ばす。
「だから! 駄目だって!」
それを車内から見ていた天道は、さすがに静観できず、エキシージから降りた。後ろに止まっていた458から霞も降りてくる。
「あっ! 天道君!!」
それに気付いた絵奈は助けを求める。
「助けて!」
「ああっ?」
男も天道達に気付いて、怪訝そうな声を上げた。
その一瞬の隙を突いて、絵馬は男の抱擁を振りほどくと天道の元へと走った。
「天道君!」
そのまま、天道の後ろへと逃げ込む。
「なんだ? てめぇーは?」
男は睨みをきかせながら、ゆっくりと天道達のところへ歩いてきた。
「ちょっとした知り合いだ」
負けずににらみ返した天道は、唇を笑みで吊り上げながら忠告した。
「悪いことは言わねぇから、この
「そんなこと、てめぇーに言われる筋合いはねぇ!」
しかし、男は聞く耳を持たず、天道と視線で対峙する。
「アンタも
すると天道はガヤルドを親指でさして聞いた。
「おうっ!」
男は頷くと、胸を張った。
「
すると、天道の後ろから、
「ちゃんと本名を名乗ったら?
絵奈が挑発する。
「てめぇー! その名前で呼ぶなって言んだろう!!」
怒り心頭の男――権兵衛は絵奈を捕まえようと手を伸ばした。だが、
「いてててててっ!」
素早くその腕を掴んだ天道に後ろ手にねじ伏せられてしまう。
「アンタも
そのままの姿勢で、薄笑いを浮かべながら天道は提案した。
「それとも、拳で決着をつけるかい?」
苦痛で顔を歪ませながら、権兵衛は天道の車を見た。
ロータス・エキシージCUP260。ガヤルドの半分も
「わかった!
権兵衛の悲鳴に近い叫び声を聞いて、天道は手を離した。
「カスミ、スターターを頼む」
「う……ん」
天道と権兵衛はそれぞれ愛車に乗り込み、スタートラインに付く。
その前に立って霞は右手を挙げた。
グーの状態から一つづつ指を開いていく。
その時になって、権兵衛はエキシージのナンバーが練馬なのに気付いた。
「練馬ナンバーの白いエキシージ……?」
それは最近、首都高速を
「まさか、奴が
そうしてるうちに霞の五本目の指が開かれ、手が振り下ろされる。
慌てて、権兵衛はクラッチをつないでスタートした。しかし、完全に出遅れ、
だが、権兵衛は焦ってはいなかった。
なのだが……、
「おいおい! まだブレーキを踏まないのか!?」
権兵衛が体感的に知っているブレーキングポイントを過ぎても、エキシージは減速する素振りをい見せなかった。
先にガヤルドのブレーキングランプが光る。その少し後にエキシージもブレーキングに入った。
「あんな速度で曲がれるわけがない!」
そんな叫びとは裏腹に、エキシージは
ドリフト走行、だ。
それに対してガヤルドは典型的なグリップ走行でコーナーをクリアする。
そのため、コーナーの出口で二台の差は、詰まるどころか広がっていた。
「
権兵衛は焦った。
霞と絵奈は、
「……さっきは、ありがとう」
と、絵奈が照れくさそうにお礼を言った。
「お礼なら、タカ君に言っ……て」
霞は少し戸惑いながら、応える。
「そうだね……」
もっともな言葉に頷いてから、絵奈は両手を挙げてグッと伸びをした。
「ああっ、今回も失敗かぁ」
そして、ぼやいた。
「また新しい
「なん……で」
それを聞いた霞は神妙な面持ちになって尋ねた。
「こんな危険な目に遭ってまで、こんな事してる……の?」
その目はまっすぐに絵奈を見詰めている。
「そんなにお姉さんのことが嫌いな……の?」
「そんな訳ない無いじゃん!」
だが、絵奈は眉をつり上げると、怒りの口調で言った。
「むしろ大好きだから、こんな事をしてるんだよ!」
そこまで言って、絵奈はあっ、となった。
「無し無し! 今のは無し!」
慌てて自分の発言を否定する。しかし、霞はバッチリ聞いてしまった。
「よかったら、
なので、多少遠慮しながらも絵奈にお願いした。
「……」
絵奈は俯くとほんの僅か躊躇したが、直ぐに首を左右に振って口を開いた。
「前はね、姉さん、走りに行く時はいつも連れて行ってくれたの」
遠い目で絵奈は語り始めた。
「あたしも姉さんの横に乗るのが好きだった……」
ビュンビュンと後ろに流れていく風景。相手の車を抜く時の爽快感。それは夢のような時間だった。
「でもね」
絵奈の顔が苦痛に歪む。
「一度、
目には薄らと涙が浮かんでいた。
「
それを隠すように絵奈は空笑顔を浮かべた。
「それから、どんどん車にのめり込んで、家にいる時間も減って」
そんな絵奈の話を霞は真剣な面持ちで聞いていた。
「一緒にいる時間もどんどん減っちゃって……」
そこで言葉を詰まらせた絵奈に、霞は言った。
「寂しいん……だ」
「べ、別に寂しくなんてないし!」
絵奈は口調を荒げて反論したが、霞にはやせ我慢しているようにしか写らなかった。
「姉さんがこれ以上、車にのめり込むのは良くないと思うから、止めようとしてるだけ!」
そんな絵奈の言葉の裏に透けて見える寂しさを、霞は感じていた。
そして、天道が自分にそうしてくれたように手を差し伸べたいと思った。
天道と権兵衛の
コーナーを一つクリアするたびにエキシージとガヤルドの差は開いていった。
「なんであんな速度で曲がれるんだよ!」
ガヤルドの運転席で権兵衛は吠えた。コーナーを回ると言うことは、恐怖との戦いでもある。しかし、エキシージにはまるでその気配が感じられない。命の危険に晒すことも
「クソッ!」
権兵衛は舌打ちをしたが、まだ
うねるように昇る40Rをクリアして、やぎさコーナーへと続く直線に出る。
”ブォォォォォォッ!”
ランボルギーニV10エンジンが唸りを上げる。570
みるみるうちにエキシージとガヤルドとの差が詰まっていく。
「へへへ、来たな」
それをサイドミラーで確認した天道は嬉しそうに言った。こうなることは
「だったら、見せてやるよ! 俺のとっておきをな!!」
直線の終わり、やぎさんコーナーが近づく。エキシージとガヤルドの差は既にテール・トゥ・ノーズまで詰まっていた。
だが、またもやエキシージは減速する気配を見せない。
「クッ!」
我慢できなくなった権兵衛が、先にブレーキを踏む。
「早すぎだぜ!」
それでも天道はブレーキングしようとしない。
「いくらなんでも、突っ込みすぎだぞ!」
権兵衛は蒼ざめた。このままでは、コーナーのアウト側にある駐車場へとオーバーランしてしまう。
そう思った時、
天道は音が出るぐらい思いっきりブレーキペダルを叩き踏んだ。
タイヤが急速に回転を遅くするが、グリップが追いつかずロックしそうになる。
それを右足の
そうしながら、ヒール&トゥで素早くシフトダウンする。
その頃にはエキシージは既にコーナーに侵入していた。普通なら完全に突っ込みすぎだ。
だが、天道はステアリングを
減速で前のめりになったエキシージのフロントタイヤは加重を最大に受けて、車体をターンインさせようとする。
逆に加重の抜けたリアタイヤは、一気にブレイクしてアウトへと流れる。
勢い余ったエキシージはリアをコーナーの出口に向けた。そのままの姿勢でコーナーを滑っていく。
そのタイミングで天道は今度はステアリングを右へと送った。それは普通ならカウンターの役目をするが、今回はそうではなかった。
振り子の原理で、リアが一気に反対側へと戻る。
それは続く40Rヘアピンへのアプローチラインにぴったり乗っていた。
滑りっぱなしでエキシージは次のコーナーへと侵入していく。
「嘘だろう……」
続いてやぎさんコーナーとヘアピンをクリアした権兵衛は、呆気にとられるしかなかった。
直線で詰まった差も、またもや広がってしまった。
それで、ほぼ決着した。
結局、勝負は天道の圧勝に終わった。
「これで、文句はねぇだろう?」
ゴールである湖尻峠の分岐点にエキシージを停めた天道は、同じくガヤルドを停めた権兵衛に言った。
「ああっ」
それに対して権兵衛は素直に頷いた。
天道はそのことを意外に思った。さっきの勢いからして、
「俺も
そう吐き捨てて、権兵衛はガヤルドへと戻っていった。
(そういうことか)
天道は納得した。紗理奈の名声がこの場を納めてくれてのだ。
「さて……戻るか」
ガヤルドが箱根スカイウェイ方面へ走り去るのを見送ってから、天道はエキシージに乗り込んだ。
「勝っ……た?」
「当然」
エキシージを降りた天道は、霞の問いに当たり前と言わんばかりに答えた。
「でっ? どうする? 帰るなら送るけど?」
それから、絵奈に向かって聞く。
「あの……タカ……君」
だが、その言葉を霞が止めた。
「ん?」
「お願いがある……の」
霞は上目遣いに天道の表情を伺いながら、言った。
「馬淵さんに協力してほしい……の」
「はぁ?」
天道は自分でも思うほど間抜けな声を出した。
「一体全体どういう風の吹き回しだ?」
それから、霞に問いただす。
「それは……」
霞は視線をそらして、絵奈を見た。絵奈は、少し緊張した面持ちで二人の会話の成り行きを見守っている。
「駄……目?」
再び天道を見た霞は、真剣な目で見詰めてきた。それで天道は、自分がいない間に何かあったんだろうと推測した。
しばしの沈黙。
「わーったよ」
天道は投げるように言った。
「乗りかかった船だ。協力するぜ」
「本当!?」
その言葉に霞より先に絵奈が反応した。
「ただし」
喜ぶ絵奈に、天道は釘を刺した。
「
その時のことを思い出し、天道は顔を
「また断られたら、それで終わりだ」
「うん! それでもいい!」
嬉しさで絵奈は、思わず天道に抱きついた。それを見た霞は、ビクッとなった。
「ありがとう! 天道君!」
翌日の日曜日に昼間。
天道は、エキシージを駆って芦ノ湖スカイウェイへと来ていた。
霞も誘ったが、祖父の用事があるというので、今日は一人だ。
いつも通りの
とは言え、夜中とは違い昼間は
だが、こういう時こそが大事なんだと天道は教わっていた。
ゆっくりでできないことは早くできる訳がない。
その教えに従い、天道はより確実に、より高精度にエキシージを走らせていた。
「ん?」
と、天道は、やぎさんコーナーアウト側の駐車場に見知った車が止まってることに気がついた。
黒いランボルギーニ・アヴェンタドール。
紗理奈の愛車だ。
速度を緩めて駐車場へとエキシージを入れる。
それに気付いたようで、アヴェンタドールの左ドアが跳ね上がった。
「一週間ぶりだな」
中から出てきた紗理奈が、屈託のない笑顔で挨拶してきた。
「もう、そんなになるのか……」
紗理奈の言葉に天道は、その時の事を思い出した。だが、良い思い出ではないので直ぐに頭の外へ蹴り出す。
「調子はどうだ?」
「
紗理奈の問いに天道はぼやくように言った。昨晩は一応承諾したが、正直、あまり乗り気ではなかった。
「ほぉーっ」
しかし、紗理奈は目を細めた。
「奴は強敵だぞ」
「そうなのか?」
それを聞いた天道の目の色が変わった。
「ああっ、首都高でもトップクラスと言って良い」
「なるほど……あの自信ありげな態度は伊達じゃないって事か」
「一発速さこそないが、とにかく
「だが、奴は例え
そこまで言って、紗理奈は肩をすくめた。
「まったく、
「紗理奈姉ぇにそこまで言わせるのか……」
相手が強敵と聞いて、天道の血が騒いだ。
「911GT3に乗って時から早かったが、ターボに乗り換えてから手が……」
「えっ?」
そこまで聞いて天道は紗理奈の言葉を遮った。
「前はGT3に乗ってたのか?」
「そうだ」
天道は単純に不思議に思った。GT3とターボなら、
GT3とターボの差は、
「それが必要な相手が現れたってことか……?」
首を傾げた天道に、紗理奈は苦笑いした。
「まぁ……その……なんだ…………」
そして、清海がGT3からターボに乗り換えた理由を話し始めた。
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