桃とバナナ
八月もも
1
帆淡はいつも左手に花を持っていた。全長十㎝くらいの、雑草と言って差し支えのないようなものが大抵だった。そして帆淡は今年で生まれてから十三年になるというのに、学校へ通っていなかった。彼女は、自分が学校へ通う必要があると、考えてはいなかった。彼女の家族は、母親代わりの歳をとった女性一人だったので、彼女は自分のしたい通りにした。
学校の先生が家までやって来ても、彼女はそこにいなかった。帆淡は一日のほとんどを近所の公園で過ごした。それを知っている人間で、なおかつ彼女の年齢を知っている者はあまりいなかった。
帆淡を外見から判断するとすれば、頑張って七歳といったところ。
彼女は発育が遅れていた。原因は精神的なものであり、明らかだった。
帆淡は「成長」を信じていなかった。
かつての藤原家は僕の家のお隣さんだった。それは僕と帆淡が同じ年の夏に生まれるよりも前からのことで、僕たちの両親同士にはごく標準的な度合いの付き合いがあったという。母から聞いた話によれば、藤原家のご夫婦は両人共に派手物好みであったそうだ。僕の父より五歳も年下だった旦那さんは休日になれば奇抜な色のスポーツカーを飛ばし、助手席ではこれまた若いには若いらしいが年齢不詳の奥さんが、ラメだかスパンコールだかのどっさりついた洋服を着込み、馬鹿みたいにでかいサングラスと女優帽を身につけて、エプロン姿で庭仕事をする僕の母にひらひら手を振ってきていたということだ。
かと言って藤原家が裕福だったわけではなく、むしろその逆、家は西向きのベランダの借家で、ウイングに派手な改造を施したスポーツカーは車庫に入りきらずいつも道路に少しはみ出していたという。ご夫婦はそれを気にするでもなく笑っていたというから、見栄張りというのとは違って、ただただそういう風な生活を楽しんでいたのだろう。
うちの方はというと、同じく西向きのベランダに古びたトタン屋根の家で、中古だが、借家ではなく、小さいながら庭もついていた。庭付き一戸建て、と言うと嘘ではないし響きが良いので、両親は好んでその言い回しを使っていた。経済状況は越してきた頃の藤原家とどっこいどっこいだっただろう、と言う母はこまめに家計簿などをつける性質ではないので、信憑性はあまり高くない。
藤原家が越してきてから数年後、僕と帆淡はそれぞれの家で生まれた。時期もほとんど重なっていたため、産婦人科の待合室で帆淡の母親が大きな腹をしながら豹柄のマタニティドレスをまとっているのを見た時には、僕の母も、どこで見つけてきたのかと呆れずにはいられなかったという。
とはいえ帆淡が生まれるまでの数年間で、藤原家は見る間に生活の質を落としていった。同じ住宅街にある家を選ぶ家族である。収入の面ではさして差はなかったであろうに支出の方はといえばそうではなかったのだから、当たり前のことだ。
遠出の頻度や、母親のまとう煌びやかな洋服の種類が減っていったという。娘の誕生はそれに拍車をかけたことだろう。うちの母がいつも言っているが、子供にはとにかく金がかかる。やがて夫婦は互いが互いの趣味に倹約を迫るようになり、いさかいを起こすことが多くなった。お隣からの怒鳴り声が連日絶えなくなった頃には、うちの母はただひたすら帆淡の心配だけをしていたらしい。やがて母親が無断で車を売り飛ばしたことから始まったひときわ激しい大喧嘩の後に父親は家を出て行き、しばらくの間は荒れた借家で踏ん張っていた母親も、ある朝うちのポストに「子どもをおねがいします」という一切れの紙を残し、蒸発してしまった。
こうして小さな帆淡は本来ならば自分を庇護する存在であるはずの大人たちを失った。紙切れを見た母が急いでお隣へ行ったところ、帆淡は泣きもせず、じっと黙って薄い毛布にくるまっていたのだという。当時帆淡はたったの五歳だった。母は彼女を抱きあげた時、その身体が猫のように軽いことに驚いた。
家は荷物がほとんど残っていたため連絡の取れた親戚のところへ帆淡はやられることになったが、不運というかなるほど彼らの血縁ならというか、帆淡は厄介者扱いをされた。
その頃、電話口で心を痛めた表情の母を見た記憶なら何度かある。親戚もそう多いわけではなく、しかし同居をさせるには問題の多すぎる環境ばかりということで、帆淡は最終的に里子に出されることになった。
里親は近隣に住む中年の夫婦だった。里親の条件の中には子供との年齢差に制限があったそうだが、夫婦は二人共にめったに風邪も引かないというほどの健康ぶりであったため、どうにか決まった。子供に恵まれないまま終えるかと思っていた人生に張り合いができたと、年齢差から言えば祖父と呼ぶ方が自然な、帆淡の新しい父親はとても喜んでいたということだ。
里親に出すまでの世話は全てうちの母がやった。事情を話してからもつれない態度の親戚を母は初めから信用していなかったらしい。本当を言えばうちで引き取りたかったぐらいだったのだが、うちはあんまり裕福ではなかった。あんな親戚のところに遣るよりは自分の目の届く近所の優しいご夫婦の元に行かせられてよかったと、母は満足げな様子だった。
僕と帆淡は同じ年に生まれたが、一か月だけ僕が早い。僕らが生まれた頃にはまだ母親同士の付き合いも人並みにあり、僕らはよく一緒に遊んだ。家の前や、近くの公園。幼稚園も同じところへ通い、その頃にはやはり性差によって遊びの内容が違ってきてはいたが、一番長く一緒にいたのは帆淡だったように思う。年長の秋頃に両親が出て行ったため親戚間をたらいまわしにされていた帆淡とは、卒園式は別だったが、小学校の入学式には落ち着いていて一緒に出席した。配慮があったのかどうかは知らないが入学したての一年生、僕らは同じクラスだった。
小学生の僕にはいつの間にか、一週間の行動に決まりができていた。習い事を始めたために木曜日の放課後は潰れてしまった。月曜日と水曜日は学校が早く終わることが多かったため、帰る間も惜しんで校庭で転げまわるということもあり、大抵学校の友達と遊ぶことになった。
そして、ほとんど毎週、火曜日と金曜日は帆淡と遊んだ。家が少し離れたとはいえ学校では顔を合わせる。週に二度、女の子と遊ぶなんていうことは小学生の男の子にしてみれば珍しい習慣だと思うのだが、僕も、周りの子供たちも、その行動があまりにも当たり前のように行われていたため疑問を差し込む隙間もなければからかいを入れる余地もなかった。それに、家庭環境が複雑であることなどはどういうわけか何らかの形で周囲の人間の知るところとなってしまうものであり、僕らの同級生も帆淡が少し特別な子であることはうっすら感じていたのだろう。と言っても帆淡はわずか一年で小学校へは通わなくなってしまったため、今でも帆淡のことを覚えている人間が当時の同級生の中に何人残っているかは定かでないのだが。
週二回、学校が終わると僕は、公園に行った。自主的に学校へ通うのをやめてから帆淡は一日の大半を公園で過ごしている。塗装のはげた滑り台やブランコに、ささくれ立った木のアスレチックがあって、広いが球技は禁止されたグラウンドもある。西の端には木々の茂る小山、中央には大きな花壇、他にも小さな花壇が点在していて緑も多い市民の憩いの場というわけだ。
僕が走って公園に着くと、帆淡は小さな花壇の近くにしゃがみ込んでいることが多かった。アスレチックや滑り台は遊び盛りの坊主たちが占領しているし、ブランコは一人ではこげない。グラウンドの方には大人がいることが多い。
帆淡は大人が大嫌いだ。
「帆淡」
小さく呼ぶと帆淡が振り向き、黒いつややかな髪が肩から滑り落ちる。それは帆淡が好んで着る白いワンピースによく映えた。おぼろげな記憶の中にある、彼女の実母のいでたちとは大違いだ。
「
帆淡は、蝶が花にとまるように僕の名前を呼ぶ。
「今日はたんぽぽ?」
いつも通りに帆淡の左手にあるものを指摘すると、そう、と帆淡はその黄色くかわいらしいものを突き出す。
あどけなさでいっぱいの表情。同じ年齢の僕でもそう感じずにはいられない、そんな顔を帆淡はした。
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