第8話「所長! 風邪ですよ!」
諸君、悲報である。俺は風邪をひいてしまった。
昨晩の水風呂健康法を実践したことが間違えだったと気がついたときには、
しばしの間眠っていたらしい。別棟の寝室にて、ダブルベッドの上に、掛け
故に、まったく身動きが取れない。イグサで縛られているかのようだ。俺は
首回りは動きそうだが、いかんせん、首の付け根辺りが腫れたように痛いため、動かすこと能わず。
アンリカを呼ぼうにも、声が出せない。喉をやられたらしい。ヒューヒューという掠れた音が鳴るだけである。
「エッヘッヘ。学者さん、学者さんよ。あなた、困ってやしませんかい?」
酒灼けた親父の喉笛をハンマーで滅茶苦茶に叩き潰すもかくやという、酷くしわがれた囁き声が聞こえてきた。
はて、いったいどこから。わりと近くに感じられるのだが......。
俺は黙したまま、天井でくるくる回るシーリングファンライトを眺めていると、また囁きがあった。
「いやあ、しかし、ずいぶんと苦しそうだあ。ええ? さては、風邪でも引いたろう。明察かい? 明察だろう。私を侮っちゃあいけませんよ。医者ではありませんがね、それくらいはわかるんでさあ。かくいう私もね、毒沼でひとつやらかしたことがありましてね、一月と風呂に入っていなかったもんでね、
厚顔無恥たる声の主は、婉曲に詰っていると言わんばかりに滔々と捲したてると、激しく咳き込んだ。
何故俺が水風呂に飛び込んだことを知っているのだと、俺は思った。
諸君等に述懐した通り、俺は叫ぶことも、四肢を随意に操ることも出来ないため、詮術を知らず、ただ虚空に眼を凝らすばかりである。
誠に相済まない。憤慨し、黙殺を決め込んでいると思うかもしれないけれど、違うのだ。
五里霧中の状態で、思索に耽る
あたかも小さな虫が這っているが如しである。やがて、それは鼻に到達したようで、目線を鼻尖部へ遣ると、暗緑色の
ささくれたスカートのような所から伸びたすね毛だらけの脚。左手に酒瓶、右手に盃。折編笠を被っており、赤ら顔が覗く。
小人はどっしり胡座をかいた。
「あー、どっこいしょ。やれやれ、学者さんの鼻は
小人はそう言うと、襤褸の中でごそごそと何かを探しはじめた。「う〜ん」「違う」「こりゃ嫁のだ」「あちゃあ」などと言いながら、あっちこっちに物を放り投げるので、頬にペチペチと当たって痛いやら、くすぐったいやらで、たまらず何度かくしゃみをすると、その度に小人は吹き飛ばされたが、不撓不屈の精神で、落っこちては登ってくるを繰り返した。
ややあって、小人はお目当ての物を見つけたらしく、得意顔で口許に這いよると、突発的なくしゃみによって見事に吹き飛ばされた。
コンコンとノックの音が響いた。ドアがガチャリと開いた。アンリカが入ってきたようだ。
パタパタとスリッパを鳴らして近寄ると、憂い顔で俺の顔を覗き込んだ。俺は、狸寝入りを決め込んだ。
「所長、所長。お加減はいかがですか? あら、眠っていらっしゃるのですか? ちょっと、失礼します——」
さらりとした髪が頬に触れる。石鹸の良い香りがする。
まだ熱いですね、少々お待ち下さい、何か元気の出る料理を作って参ります、と言うと、アンリカはやおら立ち退いた。
目を眇めてアンリカを打ち見遣ると、俺はギョッとした。彼女の襟元にしがみ付く、小人の姿を見たからである。
俺は嘆息し、これは夢である、熱のせいで夢と現の境がわからなくなっているのだと、己を諌めたまま、再び眠りについた。
揺籠に収まっている夢をみた。それが夢だと認識するのに、幾許か時間を要した。
半ば混濁とした意識のまま体を起こすと、アンリカが白濁とした飲み物を差し渡してきた。
「甘酒です。風邪に効くと聞きました。ゆっくりと飲んでくださいね」
俺は両手で包み込むようにそっと受け取ると、ふうふうと冷ましてから啜った。
柔らかな口当たり素晴らしく、優しい甘さが
甘酒は飲む点滴と言われているくらい栄養価が高く、ことに風邪の予防や引きはじめのときにはたいへん重宝する。
栄養素の吸収を助ける消化酵素と、エネルギーを作るビタミンB群が豊富なのである。
(美味しい......)
あっという間に飲み干した。空になった茶飲み器をアンリカに渡すと、アンリカがテーブルに乗せてある土鍋釜を手で示して、
「食べませんか?」
と言った。
腹の虫と相談したところ、どうにか食べられそうだと言うので、ありがたく頂戴することにした。
俺はコクリと肯いた。すると、アンリカは破顔した。
「たまご粥にしてみました。今、器に取り分けますから」
嬉々とした声音で、オタマをフリフリしてみせる。
茶碗には淡淡しいたまご色のお米。青葱がたくさん振りかけられ、木製のスプーンですくって食べてくれという。
いわんや彼女の料理は無類の美味しさを誇るのだが、今日に限っては不可解な酸味の類を
無論、表には出さぬものの、芳醇たる出汁と青葱のシャキシャキに紛れて忍び込んだ未知に対し、我が内懐は戦々恐々である。
美味しいと言う代わりに目顔で示そうと思い、アンリカの方に目を向けると、肩にしがみ付いている小人を発見した。
アンリカに気取られないように、俺は努めて自然に微笑んだ (つもり)。すると、アンリカは満足気な様子で微笑みを返した。
その後、何か用事を思い出したのか、「ちょっと、失礼します」と言って部屋を後にした。
あの酸味は何であったのか。お粥をモグモグとやりながら思惟に耽っていると、小人がモソモソと蒲団を踏みながら、俺の目の前にやってきた。
「ひとつ、盛ったでしょう?」
俺が訊ねた。声が出た。いつの間やら喉の痛みも消えていた。
「エッヘッヘ。どうです? 効き目はバッチリでしょう」
胡座の姿勢に移りながら、小人は得々として言う。盃に酒を注ぎ入れ、豪快に飲み干した。
俺は喉をさすり、「薬かい?」と訊いた。
「ご明察。私ら一族に伝わる秘薬はね、食べ物と一緒に摂らないと毒なんですよ。不便でしょう? それでね、改良しようと思い立ってこの世界に飛び込んできたものの、結局わからず仕舞いでして」
「ここへ来た? いったい、どうやって......」
「そりゃあ、学者さんの奇怪な機械でさあ。ほら、今はあなたの助手を務めている娘と一緒に。
それから私は一人、旅に出たのです。雄大な大地を歩き、鳥に乗って海を渡り、鬱然たる樹海で襲い来る数々の苦難のことごとくを排し、果てに見たものといやあ、娘の身を案ずる我が
小人は朗々と言うと、酒をぐいと飲んだ。
一方、俺は生唾をゴクリと飲んだ。慄然としながら、俺は慇懃に問うた。
「もしかして、助手ちゃんのお父さんでしょうか」
「ご明察」
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