文字数5000 ジャンル『現代ドラマ』 タイトル『君の心臓を整えたい』
もう会えなくなることが、私にとって一番の幸せ――
……君の心臓を救いたい。
私は今でもそう思っている。君の心臓を守りたいし、支えていきたいとも思っている。だけどそんな大それたことはできない。あなたを子供としてだけでなく一人の人間だと認めているからだ。
時を経て、今の私はこう考えるようになった。
……君の心臓を整えたい、と。
◆◆◆◆◆◆
「行ってきまーす。おにぎりだけ貰うよ」
「いいから早く行きなさい、遅刻するわよ」
「んじゃ三ヵ月後、よろしく」
「はいはい、それまでちゃんと続いてたらね」
朝の課外を受ける悟を見送った後、私はもう一人の子供を起こすことにした。彼は普通の出勤時間なので、まだ寝かせておいてもいい。
「あら、もう起きたの?」
「悟の目覚ましで起きたよ」
ふてくされたように彼は頭を掻きながら食卓についた。
「あなたも一緒に起きてランニングでもしたら? 体にいいわよ」
「何だよ、俺の腹を眺めても何も出ないぞ」
彼と一緒に朝食を取りながらテレビを点ける。出会った頃はテレビを点けることを嫌がっていたのに、最近ではこれがなければ会話も始まらない。
リモコンを置くと、ゆらりと赤の一輪挿しのカーネーションが傾いた。彼らにプレゼントして貰った花だ。
「あいつ、吹奏楽部で満足できているのか?」
「そうみたい。でも私が思っていた以上に吹奏楽ってハードみたいよ。走りこみもあるみたいだし」
「中学でテニスをしていたから大丈夫だろう」
彼はそういって新聞を読み始めた。
……本当に緩いんだから。
私は溜息をつきながらブラックの珈琲を飲んだ。ミルクを入れた方が胃にいいことはわかっているが、こっちの方が美味しいので止められない。
私も人のことはいえないのだ。
「大丈夫、あいつはもう高校生なんだから」
「違うわよ。まだ高校生よ」
私の子供・悟は心臓に疾患を抱えていた。ファロー
一度目の手術は生まれて一週間後だった。私は生まれた子供を一度抱いただけで離れ離れになったのだ。
「そう簡単に何でも認めるから、悟が普通だと思ってしまうのよ」
「普通だろう? お前が神経質すぎるのさ」
「神経質にもなるわよ。ならない方がおかしい」
私は今でも覚えている。
一度彼を抱いた後、もう会えない可能性があることを知った時の絶望を――。
現に私と同じ手術を受けた9人の子供のうち、生き残ったのはたったの2名だけだった。7人の子供の命は母親にとって一期一会になってしまったのだ。
「中学まではテニス部を認めていたじゃないか」
「あれはちゃんと調べたからよ。運動量が高校に入ると、極端に代わるの。顧問の先生にも何度挨拶にいったかはわからないわ」
私の怒りをぬらりくらりと交わす彼に憤りを覚える。だがそんな彼だからこそ、私達は今まで二人三脚でやってこれた。
私の子供が心臓疾患に掛かっていると知った時、私達は緊急子供病院がある福岡市へ向かった。北九州では設備が整っていなかったのだ。幸い、市の制度で三歳児までの医療費は全額無料であり、私の子供は不自由なく手術を受けることができた。
彼と相談した結果、私達はメジャーデビューを賭けたバンド生活を終わりとし、彼は慣れない営業へと職を変えた。
私もバイトを止め、悟の病院に寝泊りすることになった。
私達の新婚生活は子供によって劇的に変化し別居生活になったのだ。
「そんなに心配することはない。昔とは違って携帯電話もあるんだ。どこかで行き倒れたりすることはないよ」
「……倒れたら、その場で終わりだけどね」
彼に噛み付きながら当時を振り返る。
今のようにSNSが普及していなかった私達のコミュニケーションは公衆電話とポケベルだけだった。連絡も毎日取れるわけではなく、彼から連絡がない時もあった。私は不安に苛まれながら市が運営する『心臓を守る会』に入り、そこでひたすらに彼の病気について学んでいった。
悟の病気がなぜすぐわかったのかというと、それはチアノーゼという酸素欠乏症が見られたためだ。心臓疾患を抱える者の多くが血流に異常をきたし、肌が青黒く変わってしまうのだ。
悟は生後まもなく全身をくまなく調べられ、心臓に問題があるとわかった。その時に4つの問題があるといわれ、ほっとけば1年の命にもなると宣告された。
「悟の楽器は何になるんだ?」
「まだ決まってないみたいだけど、トランペットが吹きたいんだって」
「ふーん、それはいいな」
彼は笑いながらいった。
「俺はユーフォニアムだったから、俺が教えることもできるな」
「そうなの?」
知らない情報だった。彼はベース一筋だと思っていたからだ。
「ああ、吹き方があるんだが、管楽器は基本一緒だ。コツがあれば種類が変わってもできるんだよ。フルートみたいなのとはまたちょっと違うけどな」
「そうなんだ」
高校に入る前の悟の表情を思い出す。
中学に上がる頃に、私は彼と約束した。テニスをするのなら三年間しかできない、と。高校でのテニス部は絶対に認めないと断言した。だからこそ彼は真剣にやって全国大会まで行きベスト8に入賞できた。
テニスを辞めたくない、という彼の言葉を思い出し眠れないことがある。だが私にも保護者としての意地がある。
時限爆弾を抱え運動部に入った彼を三年も見守ることはできない。
私の心臓が持たないからだ――。
「お前も今日は出かけるんだろう? 今日のお客さんは?」
「実は12歳の子供なの」
私はご飯を噛み締めながらいった。
「その子ね、受験ノイローゼになって過呼吸になって倒れたらしいの。だから今日はその子の家に行って施術することになってるわ」
私の仕事は整体師、悟の心臓疾患を知ってから、数多くの本を読み、気づけばこの道に入っていた。
私が悟にできることといえば、マッサージだけだった。彼は人より酸素濃度が低いため、他の子よりも機嫌が悪くなる傾向があった。だから彼の体をマッサージをすることで改善を図るほかなかったのだ。
「……そいつは大変だな。でも……なぜ君に依頼がきたんだ?」
「やっぱり精神病院に行かせたくないみたい」
私は相談を受けた相手を想像しながら頭を働かせた。
「病院に行くだけで自分には異常があると思ってしまうだろうしね。受験もできない、と自分自身を過小評価してしまうし、扱いが難しいのかも」
「……そうか。お前も苦労が耐えないな」
「そうよ。だからちゃんとあなたが話を訊いてくれないと、私の心臓が持たないわ」
「気をつけるよ」
彼はにやりと笑いながら、こちらを見た。その笑顔には新婚の時に見せていた表情があった。
……私達はいつから普通の生活が送れるようになったのだろう。
当初は悟の命を助けることだけで精一杯だった私達が、こうやって怠惰な生活を送れるようになったのも、全ては悟が健康に真面目に育ってくれているおかげだ。
彼が病気を克服したことによって私は今の職業を目指すことができたし、彼も子供ながら人よりも優しい性格になったと思える。旦那も今の仕事で満足できているようで、私達の家庭は人並みの幸せを手に入れた。
病気は悪いことだけではない。辛い試練を乗り越えれば、素晴らしい景色を見せてくれるのだ。
「大変だろうけど、頑張れよ」
「ありがとう。あなたもそろそろ整体を始めた方がいいんじゃない?」
彼のお腹を見ると、旦那は嫌そうに顔をしかめた。
「どうせやる時は説教からだろう、お前のは長いんだよ」
「当たり前じゃない。あなたのためを思っていうのだから、それくらい飲んでくれないと」
私が睨むと、彼は勘弁してくれと手を上げた。
「……まずは自分で運動からすることにするよ」
「よろしい」
私が承諾すると、彼は微笑んだ。
◆◆◆◆◆◆
……初めてはやっぱりこの年でも緊張するわね。
信号待ちをしながら依頼主の情報を何度も確認する。人様の子供は初めてだからだ。お客は年配の方が基本で、体の節々の痛みを訴える人がほとんどだ。
その大多数が食生活の乱れといってもいい。一人暮らしをしている人はバランスを崩し、睡眠が足らず、鬱病を発症することもある。健康の鍵は食生活が第一だ。
だが正論をいった所で治るのなら私のような職業は存在していないだろうとも思う。
私自身、完璧にできているかといわれれば、そうでもない。日常生活に気をつけている私でもマグネシウム不足で睡眠障害にあったこともある。気をつけ過ぎてもそれは一種の病気になってしまうのだ。
……まあ、考えても仕方ないか。
12歳の女の子と話す内容も纏まらずインターフォンを鳴らすと、ご両親が玄関から出迎えてくれた。
「こんにちは、佐藤です」
「ああ、お待ちしていました」
リビングで話を聞きながら、彼女の部屋で施術をすることになった。すでに私の患者は自宅に待機しているらしい。
部屋に上がり、彼女の部屋をノックするが何の反応もない。
「こんにちは、中に入ってもいい?」
やはり返事はない。私はそっと扉を開けると、ベットの上にうずくまった少女が大きな熊の人形を抱えていた。
「こんにちは、お母さんから私の話は聞いてる?」
「……一応」
彼女はスイッチが切れたロボットのように静かに佇んでいた。その姿に私は気落ちした。
……可哀想に。
この子の心境を一瞬で理解してしまう。絶望した表情が私の新婚生活と結びついてしまったからだ。きっとこの子は子供ながらにも問題をたくさん抱えているのだ。
この世には楽しいことが1つもない、と考えているように。
私は話し出す前にベットの横に座った。
「お名前は?」
「ちさと」
「そっか、ちさとちゃんって呼んでいい?」
彼女は頷くだけでこちらを見ようとしなかった。
私は熊の人形を抱えた彼女をそのまま抱きしめた。
「もう大丈夫。辛かったでしょう」
彼女の反応を確かめながら背中をゆっくりと撫でていく。
右手で肩周りを擦り、左手で背中の感触を確かめる。幼い子供にしては異常に筋肉が張っている。普通の子供ならくすぐられているように感じて逃げ出してしまうはずだが、彼女は一向に逃げる気配がない。
「今からおばさんと二時間だけ話しましょう。体をゆっくりと休めて。辛いことは考えちゃダメ。自分の体を楽にして」
「……うん」
彼女の力が抜けたようだ、第一関門は突破できたとみていいだろう。
彼女の施術を開始して、たくさんの話を聞いていく。子供は話したいことがたくさんあるのだ。それを訊かずに無理難題を押し付けると、大人でもパンクしてしまう。
彼女は熊のぬいぐるみが好きで、本当はぷーさんが欲しいこと。ディズニーのアニメも見たいけど、英語の勉強が忙しくて見れないこと。仲のいい友人と疎遠になって学校で一人ぼっちになっていること。
「よし、今日はこれでお終い」
二時間の施術を終えると、彼女は私の腕を掴んだ。
「ねぇ、お姉さん。行かないで……」
「ん? どうしたの?」
「お姉さんにもう少しだけここにいて欲しいの……」
「そっか……。ありがとう」
……よかった。
私は彼女の悲鳴を聞いて逆に安心していた。自分の体に不調を訴えられる人間は必ず再生できる。間違っていることを間違っていると認められることができれば、それはすでに回復への一歩に向かっているのだ。
「もう一度、会いたい?」
「……うん。泊まって欲しいくらい」
「うん、お母さんに話しておくね」
彼女と指切りをして誓い合う。
……きっと、この子には私はもう、必要ない。
ちさとちゃんの笑顔を見て確信する。この出会いがもう一度あれば嬉しいけど、彼女が幸せになってくれるのなら最後でも構わない。彼女にはきちんと母親がいるのだ、子供は皆、自分の母親に抱かれたくて生まれてくる。
母親だって、一緒だ――。
「じゃあ、もう一度ハグをしよう」
そういって私は彼女を抱きしめた。気持ちを落ち着けるために一番大事なのは相手を受け入れることだ。抱きしめ合うことで人は安心でき、生きようと思える。
……彼女の心まで届きますように。
私は彼女を抱きしめながら心臓の鼓動を確かめる。最初よりも落ち着きを取り戻している。彼女はきっと大丈夫だ。私の心臓がそういっている。
私は医者のように心臓を救うことはできないし、彼女の両親のように体を支えることはできない。だけど、それでも私にしかできないこともある。
それが心臓を整えるということだ。
「ありがとう、ちさとちゃん」
私は最後になってもいいように、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
……私は君の心臓を整えたい。体だけでなく心も。そしてまた、私の心臓も整えて欲しい。
ちさとちゃんの手が私に絡まった時、我慢していた涙腺が少しだけ緩むのを感じた。
私はそのまま目を閉じて、彼女に再び感謝の言葉を述べた。
★9
3人が評価しました
★で称える
自分の小説はレビューできません
★★★ Excellent!!!
優しく包み込む掌編 ―― 骨董書店
子供と心臓の病。重くならざるを得ないテーマだ。
しかし、この短編はテーマをしっかりと描きながらも、全編に爽やかな印象を漂わせている。
作者様の確かな筆力が感じられる作品だと思います。
2017年7月26日 12:19
紅蛇さんが2017年7月26日 11:58に★で称えました
★★★ Excellent!!!
『整えたい』という言葉の中に、筆者の想いが込められているなと感じます☆ ―― 愛宕平九郎
現代ドラマのジャンルで、このまま長編にしてもらいたいくらいの魅力が詰まってます☆
心臓に限らず『整える』とは、どういう事なのか……改めて……というよりかは、新しい発見を得る事ができるかもしれませんよ (o^-')b
2017年7月26日 11:50
すべてのエピソードへの応援コメント
愛宕平九郎
2017年7月26日
11:46
お題16『母の日』 タイトル『君の心臓…へのコメント
こんにちは~。お邪魔いたします^^
整えるという言葉が良いですね。
変えたい、治したい、救いたいという気持ちもわからなくはないのですが、どことなく違和感を覚えます。整えるという言葉は、それらの気持ちも全部ひっくるめた癒しの言葉にも感じますな☆
自分も、マッサージと言う選択肢を採用してみようかしら……東京にあるかなぁ~。
削除
作者からの返信
コメントいつもありがとうございます^^
今回のお話、地元にいた頃に仲良くなった整体師さんのお話です。
お子さんのことも書いていますが、ほぼ事実で、きちんとお話を聞いた上で書かせて頂きました。
整える、という言葉。本人から頂いたもので、私にはこれしかできないから、手を抜かない、という覚悟を聞いた時、胸の中が熱くなり、この人を主人公にした短編を書こうと思ったんです。
長編にできるほど、物語が煮詰まっていませんが、そういった声を頂けること自体に喜びを覚えています。
本当にいつもありがとうございます^^ うれしいですb
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます