文字数 3500 ジャンル『恋愛』 タイトル『雨とプールとポカリスエット』


 


 『水色のポカリスエットは、淡く、の味でした――』











  ◆◆◆



「あ、雨だ」


 ぽつり、ぽつりとガラス越しに見える雨をぼんやりと眺めていた。この時期の雨はアスファルトを濡らし、なんともいいようのない夏の匂いを放ち始める。僕はこの匂いが好きだ。


 プールの回数券を鏡張りの受付に渡し、スポーツバックを頭にかざす。これは雨よけだ。すぐそこに自分の車があるのだが、たった今乾かしたばかりで濡れるのはさすがに気が引ける。


 車に辿り着き、再び雨を拭う。車の中でさっき買ったばかりのロイヤルブルーのポカリスエットを口に含む。泳いだ後の水分補給は格別だ。最近カロリーオフの水色のパッケージが増えてきているが、僕にとっては邪道である。


 大学に入ってから、3ヶ月が過ぎようとしている。息の合う友人も見つけた。今日の夜もみんなで楽しくご飯を作る予定だ。なのに、心の中に空いた穴はどうして埋まらないのだろう。


 大学に入るために必死に勉強をした、それなのに今の生活には達成感はない。僕の得意なのは理科の生物だった。暗記をすればある程度は点数が取れるが、それは85点までだ。それ以降の点数を上げるためには、知識ではなく問題を読む解く力が必要だった。


 がむしゃらに問題を解いていた時期が懐かしい。生物の勉強はただのテスト対策だけでなく、自分の趣味へと変化していった。頭の中で得た知識が二次元から三次元へと変わる頃には、僕はテストで90点以下を取ることはなかった。


 大学に入り、さらなる知識の探求へと向かうと思われたが、そうはならなかった。専門性が高すぎて、自分が何のために勉強をしているのかがわからなくなっていったのだ。


 僕の専攻は農学部で米を扱っていた。コシヒカリなど有名な栽培稲の起源を見つけることが課題だったが、その研究は50年経った今でも見つけることができずに、さらに後20年は必要とされている。


 来る日も来る日も、一粒の米の幅、高さ、ふ毛を測り、一日8時間以上顕微鏡を見続ける毎日を過ごしている。


 それでも研究は進まなかった。やり直しを命じられることもしばしばあり、自分が何のためにここにいるのかがわからなくなっていた。


 次の日も、僕は時間を見つけてプールに泳ぎに行った。ここのプールは50m幅で広く他人に気を使わないでいい。


 泳いでいる時は何も考えなくてよかった。ただひたすらに腕を回し、足でバランスをとりながら、まっすぐに進めばよかった。この時ばかりは大学での講義も、研究も忘れることができた。


 プールから上がると再び雨が降っていた。車には戻らずロビーでポカリを飲んでいると、同じくポカリを持っている人がいた。彼女が飲んでいるのはカロリーオフの水色だった。


 気まずい空気が流れていく。一人でいれば、気を使わずゆっくりと休めるのだが、他の人がいれば自然と頭を働かせてしまう。 それに僕にとって水色のポカリを飲む人は意識が高く、近寄りがたい存在なのだ。


 自然と距離を取り彼女を観察する。黒のTシャツに八分袖の白パンツ、水色のパンプスを履いている。髪は長く茶色に染まっており、若干パーマが掛かっている。プール上がりだというのにすでに口紅がついている。


「ねえ、このポカリとそのポカリってどう違うの?」 


「え? どうなんですかね? わからないです」


 いきなり話しかけられ否定の言葉が飛び出た。まさか話し掛けられるとは思っていなかったからだ。


「なんとなくこっちを買ってみたんだけど、どう違うのかなって思って」


「色が……違うんじゃないですかね」


 中身が違うことを知っていたが、先に知らないといってしまったのだ。もう後には引けない。


「そりゃそうだけど……ねえ、ちょっと君のを見せて」


 何もいわずに手に持っていたポカリを渡す。彼女は礼もいわず、その大きな瞳で見比べている。


「わかったっ!」


 彼女は大きく頷いて叫んだ。


「青いのは大塚製薬で、水色のはAEONが作ったのよ」


 ……そんな訳ないだろう。


 心の中で溜息をつく。確かにイオンウォーターと書いているが、どちらともに大塚製薬と書いてある。

 

だがここで反対する方が面倒だ。無言で首を縦に振ると、彼女は上機嫌に独自の解釈を続けた。


「本当にそっくりだわぁ。でもこれだけパッケージを似せたら怒られるんじゃないかしら」


 ……怒られるも何も同じ会社なのだから、何の問題もない。


「すいません、そろそろ失礼します」


 これ以上、彼女に関わるのは面倒だ。 立ち上がり逃げるようにその場を立ち去ろうとすると、彼女はペットボトルを投げてきた。


「あ……」


 渡されたのは彼女の水色のペットボトルだった。きっと青色の方を投げたかったに違いない。形のいい唇がぽっかり開いている。


「急いでるんでしょ、そっちあげるから」


 彼女はそういって早くいけ、と手を振っている。これ以上、戻って訳を話しても面倒だ。僕は頭を下げ、車に乗り込んだ。


 車に乗り込む時、結局、水浸しになった。スポーツバックで頭を隠すのを忘れたからだ。だがそれでもいいと思った。


 車を動かし、信号待ちの時に頂いた水色のポカリを口に含んだ。


 再び信号待ちで鏡を見ると、自分の唇にうっすらと色がついていた。



 ◆◆◆



 それからというもの、僕は雨が降る時間帯に泳ぎに行くようになった。雨の中なら、ロビーで休憩していても不自然ではないからだ。彼女ともう一度だけ話がしたい、そのために僕は泳ぐ時間を延ばして、彼女を見つけるために泳いでいく。


 50mプールの幅を一往復すれば、100mだ。10往復すれば1km。だいたい一時間でゆっくり泳げば2kmで、40回ターンをすればいい。

 この一時間が僕の日課になっていった。

 

泳ぎながらまた、彼女のことだけではなく、栽培稲のことを考えていた。2km泳いだからといって何も進まない、米粒一つを測った方が研究は一歩前に進むのだ。なのにどうして、この無意味な時間がこんなにも楽しいのだろう。


 教授の顔が不意に浮かぶ。彼はすでに還暦を迎えており、自分の一生の時間を使っても研究成果は得られないのだ。それなのに、彼は田んぼで野生の稲をきちんと育て上げ、きっちりと一粒ずつ測っていた。


 きっと理由など存在しないのだろう。彼にとってそれが生きがいなのだ。結果よりも過程を楽しんでいる。それが羨ましくもあり、今の自分とシンクロしていくようだった。


 彼女を待つ時間と、自分の泳いでいる時間が交差していく。一度は偶然だったとしても、次は必然にしてみせる。


 泳ぎは次第にクロールから背泳ぎに、最後にはバタフライへと変わっていった。泳ぐ楽しさを覚えてしまったら、もう止まれない。バタフライが自由にできるようになれば彼女へのアピールにもなる。僕は夢中で泳ぎ続けた。


 泳ぎ終わると、僕は水色のポカリを買って喉を潤した。彼女に会いたいという願掛けも入っている。


 その思いが通じたのか、再び彼女と目があう機会に恵まれた。前と変わらず唇には褐色のいい口紅ががついていた。


「お、久しぶりじゃん」


 彼女は愛想よく笑いながら自動販売機でロイヤルブルーのポカリを買った。その笑顔にグッと心が脈打つ。


「今日もそっち飲んでるんだ」


 ……今日も?


 いつ彼女に見られたのだろうか。自慢じゃないが、自動販売機の前に立つ時は必ず確認した。誰の目にも止まっていないはずだし、彼女は見掛けなかった。


「……やっぱりさ、私のがよかったの?」


 彼女は小声で誘惑するような瞳でこっちを見る。


「そ、そんなことないですよ、今日はたまたまこっちを買ったんです」


「ふーん、たまたまねぇ……」


 僕の一言は彼女の何気ない一言に打ち砕かれていく。


 ……どうしてばれている?


 彼女は僕が水色のポカリを買うようになったのを知っているのだ。


 プールで泳いでいる時も必ず確認したし、車に乗り込んだ後も彼女がいないかチェックした。それなのにどうして彼女は僕の動きを知っているのだろう。


 真剣に見つめると、彼女は黙って右手の親指を後ろへ向けた。それは鏡張りの受付だった。


「こっちからじゃ見えないけど、中からだと丸見えだから」


 全身の毛が逆立っていく。ということはまさか……。


「悪いね、君みたいなピュアな少年を誘惑しちゃって。そんなに美味しかったの? 私のポカリ」


 何もいうことができない、事実だからだ。僕は顔を真っ赤にしたまま、頷いた。


「そっか。素直だね」


 彼女はそういって機嫌よく頷いた。


「じゃあさ、交換してみる? 本当はの方が好きなんでしょ?」








★16

6人が評価しました

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スティーブンジャックさんが2017年3月26日 01:19に★で称えました

★★★ Excellent!!!

淡い一コマですね。でもめっさ狙われてる感があります。 ―― さつきまる

一言で言えば、青い春ですねw


初心な男性と男心を上手に掴む女性像が、

読んでいて( ̄ー ̄)ニヤリとなります。


CMみたい。


軽い気持ちで読んで、ちょっと照れてみて下さい。


意外とこういうのが、心に残るんだよなぁ(*^^*)

2017年3月26日 01:03

★★★ Excellent!!!

純粋で純水な小説です。 ―― 大柴 博明

ずっと、遥か昔、自分も純粋な時代があった!


2017年3月16日 13:17

★★★ Excellent!!!

今回は蠱惑的な感じがいいですね。 ―― 夷也荊

 短編恋愛作品の名手である作者様の作品。この作者様の短編恋愛作品に、間違いはありません。全部当たりです。

 これまでの作品はほんのり、ほんわかした恋愛模様が描かれていましたが、今回は何とも挑発的で蠱惑的な雰囲気が漂っています。

 でも、作者様の力量によって、青春っぽさは残っています。

 たった10分ほどで堪能できるちょっとした主人公の非日常を、のぞいてみてはいかがでしょうか?

2017年3月16日 07:34

井上和音さんが2017年3月15日 13:03に★で称えました

★★★ Excellent!!!

何度でも交換したい恋の味☆ ―― 愛宕平九郎

ポカリスエットを使った、出会いの始まりを描くお話。

彼女に翻弄される男の弱さが上手く出ています☆

2017年3月14日 20:45

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