どこにでもある狂気の物語

バロウズ

第1話オカマ

 七月の半ばだった。

 光と影が訪れては去っていく。太陽と月が昇っては下がっていく。朝と夜が現れては消えていく。

 浮浪者が便所以外の場所で糞を垂れている。餓鬼が電信柱以外の場所で小便を引っ掛けている。

 壁に落書きされた子憎たらしい小僧のイラストが、これでもかといわんばかりに壊れた笑みを浮かべている。

 ドン、ドン、ドン、ドンキー、ドンキホーテ……耳を聾する聞きなれた単調なリズム。

 道玄坂二丁目にあるドンキホーテで、俺はトリスウイスキーを一本買った。

 一番安いウイスキー……俺がトリスを買ったのは単純に金を持ってなかったからだ。

 酒を飲みながら路地を突っ切った。道玄坂のクラブに顔を出す。行きつけのクラブだ。

 それから他の酔っ払いと喧嘩になり、ドテッ腹をしたたかにぶん殴られて、アルコール臭いゲロを口と鼻の穴からぶちまけた辺りで、

 俺の記憶はぷっつりと途切れていた。

 後頭部の辺りがやたらと重苦しい。首の付け根を回す。関節が厭味な音を立てた。身体中がたまらなくだるい。

 アルコールの過剰摂取に肝臓が悲鳴を上げている。それでも俺は毎晩飲み歩いた。

 ベッドから身体を起こし、サイドボードの引き出しを開けて、ラムのスキットルボトルを取り出す。

 酒を飲みながら洗面器に向かう途中で、むくんだ脚がもつれそうになった。洗面台の蛇口を捻って顔を洗い、鏡を覗き込む。

 鏡にうつった俺の顔──眼にクマが出来ている。顔色は青白く、日頃の不摂生を物語っていた。

 シャワーを浴びて汗と埃を洗い流したかった。腕時計を見る。舌打ち。時間がない。待ち合わせの時刻に遅れそうだ。

 ゲロまみれのTシャツを脱いで、洗濯機の中に放り込む。

 それから新しく着替えるとジーンズの尻ポケットから携帯を取り出し、イサムに遅れるとメールを送信する。

 こめかみが痛んだ。二日酔いのせいだ。俺は洗面所から出ると、テーブルの上に置かれた生温くなったコーラの缶を手に取った。

 小便がしたくなる。コーラを持ったまま、浴室の中に入った。シャワーのコックを捻り、頭から水を浴びた。

 冷たい。俺の尿意が増していく。俺はシャワーの水を浴びた状態で膀胱を緩めた。

 排水溝に水と混ざった生温い液体が吸い込まれていった。

 

 ☆

 

 ケツを拭く紙がほしい。それも福沢諭吉の似顔絵が描かれた紙を。俺は109を通りかかった。

 流行のファッションに身を包んだ少女達が、自分の服装をチェックしている。服装──どれもバラエティーに富んでいる。

 少女達の顔──どいつもこいつも同じで見分けがつかない。同じ表情を浮かべ、同じセリフを掛け合う少女達。

 表のツラでは、同じ褒め言葉を並べ、同じ返事をして、互いのスタイルやらアクセサリーやらをベタベタと大仰に褒め称えている。

 その癖、裏では女子高生向けのストリートファッション雑誌に必死に食いついて、

 どれだけ自分がイケているのかを他の奴らと競っている。

 考えている事も恐らくは同じだ。私が一番可愛い──俺から言わせればドングリの背比べに過ぎない。

 バカ高いカジュアルやらアクセやらを揃える為に親父に股を開き、援助交際に精を出してモデルと同じ格好をしても土台が違う。

 胴長短足のカボチャみてえな顔した奴がモデルと同じカジュアル姿になったとこで、似合うわけがない。

 俺は小便臭せえ雌ガキどもからさっさと離れた。

 蒸し暑い熱気、錆色に輝くマンホール、ぎらついたコールタールの臭気、溶けて黒くなったガムをへばりつかせたアスファルト。

 わいわいがやがや──雑多な路上を突っ切って俺は渋谷センター街に入った。

 センター街の入り口にあるスターバックス──そこが俺とイサムのいつもの待ち合わせ場所だった。

 イサムはサイドに黒いベージュのフリンジが揺れる紺色のワンピースを着て、その上から白いボレロを羽織っていた。

 ほっそりとした華奢な身体、黒い大きな瞳、薄い唇に整った顔──イサムはどこかのファッション雑誌の

 トップモデルにスカウトされても、おかしくないレベルの容姿をしている。

 「遅かったじゃないの」

 イサムが俺に向かって眉をひそめた。

 「だから遅れるってメール打っただろ」

 内心で、俺はうるさいオカマだと舌打ちした。

 イサム/綺麗なオカマ/新宿二丁目をうろつく衆道狂いの親父と、鶏姦好きの警官にはたまらない美少年。

 アレン・ギンズバークの詩に出てくるようなゲイ好みの少年とは違う、ドラァグ・クイーン系の少年。

 寺山修司の名作/現代に生まれた毛皮のマリー/KYゼリーの申し子。

 もしも俺がイサムと同じ格好をしても、醜女のマリーになるだけだ。

 俺はイサムと並んで歩いた。酷く喉が渇く。糖尿病かもしれない。違う。イサムのせいだ。

 俺の鼻腔粘膜が勝手にイサムの体臭を嗅ぎ取る。

 白く滑らかな首筋、肌から立ち上るイサムの汗の匂い、髪の香り、身体が疼いた。昂ぶる。

 酒が欲しくなった。いや、俺が欲しいのはイサムの身体だ。

 ヘテロ/バイ/ホモセクシャル──俺にそっちの気はなかった。俺は自分自身にゲイの素養はないと思っていた。

 ノンケという思いは所詮、俺の思い込みでしかなかった。

 二週間くらい前に見た生物学のテレビ番組が俺の頭の中に浮かんだ。

 同じ形質の遺伝子同士が組み合わされば、それはホモになり、違う形質の遺伝子同士が結合すればヘテロになるとかって話だ。

 だから同性と繋がればホモで、異性と繋がればヘテロになる。俺は自分がくだらないと思った。

 ただ、言葉の綾の違いってだけだ。

 「ねえ、カズ、どうかしたの?」

 首を斜めに下げて見返してくるイサム──俺の目を覗き込みながら、コケテッシュな笑みを浮かべて尋ねてくる。

 わざとらしい仕草だ。

 可愛い子、ブリッ子、それがイサムの強みだ。そうやって、イサムはバイセクシャルの親父を引っ掛ける。

 俺はイサムを無視した。往来の横側に移動──通りがかったリーマンの親父がガムを噛んでいる。

 クチャクチャ。これみよがしにガムを噛む音が癇に障る。

 暇を持て余すようにぶらぶらと俺達は歩いた。デートってわけじゃないから目的なんてものもない。

 それからふたりで東急ハンズで時間を潰し、マックでポテトを食った。

 後ろを振り返ると、マックのボックス席に一人で座っていたビーボーイ系のデブが眠たそうに欠伸をしていた。

 頭の悪そうなツラをしている。

 俺達の隣の席に座っていた三十代半ばほどのリーマンが携帯でつまらねえ愚痴を吐いていた。

 「最近さぁ、明るい話題がニュースに流れてないよねぇ、みんな人殺しとかの暗い話題ばっかりじゃん。日本の未来は暗いなぁ」

 強盗や殺人なんかの凶悪犯罪がニュースにならねえなら、そっちのほうがよっぽど問題だ。

 信号を渡ろうとする年寄りを手助けしたり、川で溺れてる子供を助けたなんてニュースが大々的に放送されて、

 どっかでレイプやら放火やらが起こってもニュースに流れないなら、そんな社会のほうがヤバイし、暗い。真っ暗だ。

 「おい、イサム。頭の悪いリーマンがいるぜ」

 「どこどこ?」

 聞こえよがしにイサムに声をかけるとリーマンが俺達を睨む。俺はリーマン野郎に睨み返した。

 途端に俺から視線をはずし、リーマンはマックから足早に出て行った。

 

 ☆

 

 「怒羅権のメンバーがヤクザとかち合って、柳包丁で相手を刺し殺したってよ」

 俺達が足を踏み入れたクラブ<モンキー>で最初に耳にした会話がこれだ。

 アーミーパーカーを着たガキと、ホームレスじみたドレッドヘアのガキ同士の会話。

 クラブだっていうのに、いつもの鼓膜に響くようなうるさいサウンドが聞こえてこない。スピーカーがぶっ壊れてるのか。

 そう思っていた矢先にスピーカーから突然激しいドラム音が鳴り響いた。

 流れてきたのは昔懐かしきブラックサバスだ。ガキどもの会話が音楽にかき消される。

 クソみてえな音楽でもクソみてえな会話を聞くよりゃ、マシだ。大音量に合わせて振動する狭っ苦しいフロアの壁。

 金を払ってカウンターの横にあるガラスボックスから、コロナビールの瓶を二本掴んで一本をイサムに渡してやる。

 コロナビール片手にカウンター沿いに歩き、俺は丁度よさそうな席を見つけた。

 スツールに座ってコロナビールのキャップをはずし、俺は冷えたビールを喉に流し込んだ。

 喉が炭酸で灼けるようにヒリついた。

 美味いとは思わなかった。喉がヒリつくような感覚はむしろ不快ですらあった。

 コロナビールをラッパ飲みしながら、クラブのフロアを見渡す。フロアの片隅にあるテーブル席に俺の目が止まった。

 暗い照明の下で、瓶で潰したリタリンとエリミンのブレンド粉をスナッフするクソガキども。一錠二百円の快楽だ。

 ヒロポン、シャブ、走る奴、冷たい奴、スピード、エス──覚せい剤は高い。ガキには中々手が出せない。

 どっかでカツアゲや親父狩りをしてきたか、あるいはパチンコで勝った時くらいしか味わえない。

 女なら援交という手もある。ただし、今の世の中はどこもかしこも不景気だ。

 リーマンどもは財布の紐を固く絞め、ホテル代別でイチゴ(一万五千円)でも中々引っ掛かってこない。

 風俗関係の商売も不景気のあおりを食って、どこも閑古鳥が鳴いている。

 社会人ですら遊ぶ金がない。ガキならなおさらだ。金がないなら代用品で我慢するしかない。

 イサムがスツールから立ち上がり、トイレにいってくるわとカウンターの右手にある男女両用便所の中へ消えていった。

 俺は二本目になったコロナビールを掴み、イサムが来るのを待った。

 三分……五分……十分……時計の針が回る。チクタク、チクタク──俺はえらく長いクソだと思った。

 腹でも壊していたのか。

 気になった俺はコロナビールを尻ポケットに突っ込んでから席を立ち、便所のドアを足の爪先で開けた。

 薄汚れた灰色のタイル/便所で嗅ぎなれたクレゾールの匂い……金髪男の後姿。手首を掴まれたイサム。

 どうやら厄介ごとのようだ。ドアの開いた音で俺に気づいた男が振り返る。

 男はあの晩の酔っ払いだった。男が「あ、テメエ、昨日のっ」と言いながら、イサムの手首を離して俺と向き合う。

 男が顎をイカらせて俺に近づいてくる。

 一歩/二歩/三歩──俺はビール瓶を抜き取ると、すくい上げるように相手の顎にボトルを叩きつけた。

 真下からビール瓶で顎を打たれた男が床に転がった。コロナビールは割れなかった。

 顎を押さえて悶える男の頭に瓶を振り下ろす。ガラスの砕け散る音──俺の手首に衝撃が走った。

 今度は割れた。同時に男の額も割れた。俺はイサムの手を掴むと急いでクラブから逃げた。

 血を見たイサムは興奮していた。昂ぶっていた。激しく昂ぶっていた。俺もたまらなく興奮していた。

 興奮しながら、走り続けた。背中に汗が伝い落ちていく。

 千代田稲荷神社に差し掛かると、俺はイサムを神社の暗がりに連れ込んだ。

 それから数秒ほど互いの眼を見つめて視線を交わし、俺はイサムの唇に自分の唇を重ねた。

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