第45話 朝食

 カランコロン


 空になったトレイをしっかり胸に抱えて、彼女が店内に戻ってきた。そのままカウンターの中に入り、石鹸を泡立てて手を洗いだした。ビスケを撫でてきたのだろう。さすが、飲食店の店員だ。衛生面に関しては徹底している。洗い終わった手を丁寧に拭いて、でき上がった料理をトレイにのせ、こちらに近づいてくる。

「お待たせしました」

 彼女はまた、先に僕の前に料理を置いた。上品に盛りつけられたワンプレートのモーニングセットのトーストから、ゆらゆらと湯気が立っていた。

「で、どこで知り合ったの? こちらのイケメンさんと」

 彼女の笑顔も、料理を美味しそうに思わせる要因の一つだ。

「イケメンイケメンって、興味あるのか? 将来の旦那がいるのに」

「やめてよ、そんな言い方」

 笑顔が一転し、彼女はムッとしてテーブルを離れていった。

「ご結婚が決まってるんですか?」

 僕の問いかけに、マキノさんは無言だった。怒っているというより、困っている表情だった。話題にしてはいけなかったのかと反省し、僕も黙ってモーニングセットを食べ始めた。


 台形型に切った厚めのトーストが二枚。フレンチドレッシングのサラダは、プレートのしきりからはみ出すくらいの山盛りだ。スクランブルエッグの上では、小切りのチーズがほどよく溶けている。塩こしょうだけの味付けだが、僕の作るものより格段に美味しい。一口大に切ったフルーツとヨーグルト。小さなコップのオレンジジュース。見ただけでお腹が鳴りそうだった。

 このお店のオープンは八時。外の看板に書いてあった。時計はもうすぐ八時半。僕たちが食事の半分を済ませたころには、店内は満員になっていた。ほとんどが常連客のようだ。一人で来た客同士が世間話をしたり、昨日あったことを話したり、おすすめのコーヒー豆を聞いたりでにぎやかになっていった。彼女もカウンターの中の男性も、丁寧な接客をしている。きっと、毎日同じ光景なのだろう。

 コーヒーとトーストだけの人。僕たちと同じモーニングセットを注文する人。マヨネーズで和えたツナやタマゴがはさまれた、ホットサンドを食べている人もいる。


   あ、今度はあれも食べてみたい……。


 ああそうだ。僕はよくこうして、カロリー摂取のためだけにならないよう、人々を観察しながら食事をしていた。今は初めて、一人きりじゃない食事を楽しんでいる。


 彼女が使っている銀のトレイは布巾でピカピカに磨かれている。そのトレイに大きめのマグカップをのせ、彼女が三たび僕たちのテーブルに近づいてきた。今度はマキノさんのコーヒーを先に置き、チラリと僕を見ると、すぐに視線をマキノさんに移した。

「私、結婚なんかしないから。もう二度とその話はしないでね」

 静かな口調でそう言って、彼女はカウンターへ戻っていった。それからまた笑顔に戻り、他の客たちとおしゃべりをはじめた。

 彼女が持ってきてくれたのはカフェオレだった。たっぷり入ったミルクの甘みがコーヒーの苦味をも引き立てている。一口すすってから、マキノさんは大きくため息をついた。彼の表情は変わらなかった。

「どうかね、味は?」

「ええ、とってもおいしいです。ボリュームもありますね」

 湯気の立つカフェオレに角砂糖を二つ入れながら、僕は答えた。

「それはよかった」

「他のメニューも食べてみたいです」

「ひいきにしてやってくれ」

「はい」

「血は繋がってなくても、一緒にいると似るのかね。頑固なところが私そっくりだ。アカネは」

 僕は危うく、カフェオレを吹き出してしまいそうになった。グッと堪えると、いっそう甘くなったカフェオレは、器官に入ってしまった。

 咳き込む僕を気遣って、マキノさんは持っていたハンカチを渡してくれた。


   アカネ、やっぱりそうだったか……。


「大丈夫かい? あまりの美味しさにビックリしたか?」

「すみません。猫舌なもので……」

 僕はとっさにごまかした。

「そうか、猫舌か」

 そう言って椅子の背もたれに体を預けたマキノさんの顔は、僕の咳き込みが収まったことを安心してくれている表情には見えなかった。彼の意識は僕ではなく、アカネのほうにあるようだ。

「私は罪人でね」

 唐突なマキノさんの告白に、危うくまたカフェオレを器官に入れてしまいそうになった。胸を撫でて落ち着かせ、僕は訊き返した。

「罪人、ですか?」

「私には家族がいなくてね。父は私が中学のとき交通事故で亡くなり、母も高校を卒業するころ病気で逝ってしまった。大学にはいかなかった。金がなかったもんでね。だけど、なかなか定職に就けなくて、結局結婚もせず、ずっと独り身だった。神様からの罰なのだよ」

 そのままマキノさんは口をつぐみ、残りのモーニングセットを食べ終わるまでひと言も話さなかった。彼の話した身の上にも、充分引っかかるところがある。だけど今はそれ以上、マキノさんのこともアカネのことも訊いてはいけない気がして、僕は再度おいしい食事に集中した。

 誘ったのは自分だからおごるとマキノさんが言ってくれたので、僕は遠慮なくごちそうになった。二人で店を出ると、耳塞はもういなくなっていた。パンの耳でおなかがいっぱいになり、公園へ帰ったのだと思った。用事があるからと言われたので、マキノさんとは店の前で別れた。

 アカネとの思わぬ再会、マキノさんが言った『罪人』の意味を、僕はこのあと耳塞から聞くこととなった。

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