第39話 最期
坂を登りきり、三軒目の家。彼女が今住む母親の家は明かりが消えていた。門の鍵は掛けられていない。これも彼の都合だろうか、玄関の鍵も掛かっていない。僕は茶色く塗られた玄関の扉を、音を立てないよう慎重に開いた。
片瞳が僕の足元をするりと抜けて先に入り、右手の居間へ案内してくれた。ステンドグラスの傘をかぶったアンティーク調のスタンドが、ほんのりあたりを照らしている。そのおかげで、どうにか部屋の様子がわかった。
居間だというのにベッドが置かれている。介護ベッドのようだ。そこには、彼女の母親が寝かされていた。ベッドの横に点滴の台があり、母親の左腕へと細い管が伸びている。庭に面した窓の前に、介護ベッドと平行して三人掛けのソファーがある。そこでは変わり果てた彼女が、体をくの字にして毛布にくるまっている。眉間にしわを寄せたまま、苦しそうな寝顔だ。頬はこけ、目の下にできたクマがスタンドの明かりの影のせいで、いっそう色濃く見えた。
あの日の記憶が浮かび出された。
僕はとっさに彼女の足元を確かめた。が、心配いらない。当然のことだ。お母さんになるのだから。しばらくミュールは履かないだろう。
爽やかな春の風が、彼女のうすいベージュ色のスカートを揺らしていた。西洋の建物のようなドロンワーク刺繍が裾に施されていた。その模様がやけに印象的だった。銀色の刺繍糸が、春の光に反射していたから。
彼女との最後のシーン。目の前の彼女がくるまっている毛布から、あの日と同じスカートがはみ出している。裾の刺繍は輝きを失い、ところどころ糸がほどけてしまっている。思い出されたあの日の彼女の笑顔に、僕の切ない気持ちが溢れ出した。
玄関のほうで物音がした。ショウゴが起きてきているようだ。僕はベッドとソファーの間に立ち、ドアのほうを向いた。ショウゴは開かれた居間のドアから顔をのぞかせ、言った。
「天使?」
僕の背中には、翔ぶときより一回り小さい羽が生えている。
「おばあちゃんを迎えにきたの?」
両目をこすりながら、ショウゴが訊いてきた。
「そうだよ」
僕は答えた。いや、羽と片瞳がそう答えさせた。片瞳は介護ベッドの上、ショウゴの祖母の顔の横にいる。
ショウゴは自分の母親を起こしにいった。彼女は小さく唸り声をあげ、上半身を起こした。まだ開ききらない目で僕を見ている。焦点の合わないその目は、僕を覚えていないことを物語っていた。彼女は何も言わずに、僕の後ろの壁を見つめているみたいだった。
ミャーン。 「迎えにきた」
介護ベッドの上の、彼女の母親に向かって片瞳が鳴いた。
「お母さん、天使がおばあちゃんを迎えにきたんだよ」
息子に導かれるままに彼女は立ち上がり、ベッドの枕元にひざまずいた。僕は点滴の側にまわり、彼女の母親の額に右手を当てた。片瞳はそれを見て、うなずいた。
「お母さんは苦しいの?」
彼女が僕に尋ねる。僕は答える。
「とても安らかですよ。あなたに心から感謝している」
彼女の目はしっかりと焦点を合わせ、母親を見ている。
「連れていくの?」
「はい」
「お母さん……」
息子が彼女の背中にぴたりと抱きつき、彼女を支えている。
「ショウゴ、おばあちゃんとお別れよ」
「うん」
彼女の母親の息が止まった。僕は額から右手を離し、そのまま彼女の頭へと移した。僕の心は、額に金平糖の光が当たって砕けたとき、彼の指先がそっと触れたときと同じ痛みを感じていた。
彼女は静かに泣いていた。ショウゴは彼女の背中を、優しく優しく撫でていた。彼女の母親は、優しい顔で娘に抱かれていた。
「とげとげは消えたかな?」
ドッグランまで戻り、僕は片瞳に訊いた。
ミャーン。 「うん」
「よかった」
ミャーン。 「うん」
「彼女、僕のことを覚えていなかった」
ミャーン。 「今夜のことも忘れるよ」
「そうか……」
片瞳と別れたあとも、僕は夜の巡回を続ける気にはなれなかった。ましてや、部屋へ帰る気にもならない。僕は、ただひたすらに翔んだ。羽は、それを許してくれている。
月と街の明かりに、波が揺らめいているのが見える。ゆらゆらと静かに動いている。強い風が吹けば、激しい大地の揺れがあれば、一変してしまう海。あの長椅子の背もたれの動きのように逆巻き、渦を作り、えぐってしまうのだと考えながら、翔んでいる。
最後に片瞳は言った。
ショウゴは自分の母親を最初から許していたと。これからの彼女は両目でしっかり息子を見るようになると。これまでに与えられなかった愛情の埋め合わせを、ちゃんとするだろうと。
よかった……。
心の中でつぶやくと、羽ばたきが止まった。僕はバランスを崩して、でんぐり返しを二回した。
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