短尾の章

第15話 訪問

 最初の記憶から一年、初めての呼出から帰ってきてさらに六年ほどを、六畳のたたみと卓袱台の部屋で過ごした。その年月の間に、模型の中では町の開発が進んでいた。実際の町では高速道路や商業ビル建設への反対デモが盛んに行われていた。町や経済の発展を目指す『公』と、生活の変化を恐れる『私』が対立していた。

 僕にはどちらが良いとは言えない。町が発展して生活が豊かになることも、変わらぬ人情味溢れる穏やかな日常も、それぞれの良さがあるから。それに、どちらになろうが僕の仕事にはさほど影響ないから。



 年が明けて春には開発のための施工開始となる。対立がいっそう強くなった十月末、ある夜のことだった。カリカリ、カリカリと、ベランダから音がした。置いてあるサンダルを吹き上げるほど風は強くないし、どこからか何かが飛んできたとも考えられない。一定の間隔をおいて鳴る音の原因を、想像すらできなかった。

 緑色のカーテンをそっと開けて外を見た。目線の先の景色には特段変わった様子はない。澄んだ秋の空気が、月明かりに照らされた雲の形をくっきりと空に描いている。

 視線を足元に移すと、サンダルの脇に猫がきちんと座っていた。左前足で、カリカリと窓を引っ掻いていたのだ。僕は鍵を外して、ガラス戸を開けてやった。


 ニャーゴ。


 猫は一言鳴いて、そろそろと部屋に入ってきた。縮尺模型の枠を二、三度嗅ぎ、ガラス戸を背に南側に座った。身じろぎもせず、じっと目の前の小世界を眺めている。毛色は生成。野良にしては毛並みがきれいで、足先も汚れてはいなかった。

 しばらくすると、猫は東まわりで北側へ移動し、また座り込んだ。窓を引っ掻いていたのと同じ左前足を伸ばし、模型の中の建物や高木をポンポンと軽く叩いていた。


 僕は猫から視線を外さずに、足音をたてないように静かに台所に行った。冷蔵庫から牛乳を出して平たい皿に注ぎ入れ、ゆっくり運びながらずっと猫の背を見ていた。その姿に違和感があった。何がどうとは言えない、ほんとにわずかな違和感だった。

 中身がこぼれ落ちないよう気をつけながら、僕は猫の後ろにしゃがみ込んだ。猫の右側へ皿を置いて、それから声をかけた。


「飲むかい?」


 猫は振り向き、しばらく僕を見つめていた。


 ニャーゴ。 「飲む」


 猫が返事をした。けど僕は驚かない。だって天使だから。


 見上げる瞳の色は、紫色だった。お尻を上げて体の向きを変えたことで、違和感の正体がわかった。その猫にしっぽがなかった。

 牛乳を飲んでいる間、後ろからじっと体を見ていた。猫なら、普通は長い尾を持っていると思っていた。中には、短い種類もいるのだろうか。でもこの猫は、そういうことではなかった。

 尾は二センチほどを残して、明らかに刃物のようなもので切断されていた。お尻から生えた毛に隠されてはいるが、しっぽの先端は地肌がむき出しになっていた。とても、痛々しかった。


 猫は牛乳を飲み終えると、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてきた。しっぽに触らないよう気をつけて、首と背中を撫でてやった。


「しっぽ、誰かにやられたの?」


 ・・・。


 返事はなかった。

 僕はその猫を『短尾』と名付けた。



 短尾は続けて三夜、同じ時間に部屋へやって来た。同じように縮尺模型の北側に座り込んでいた。僕は毎夜、牛乳を平たい皿に入れて右側に置いてやった。

 そうしながらも、いささかの不安があった。あまり情けを掛けると、この先毎晩のようにやって来るようになるかも。夕飯を、ここで済ますようになるかもしれない。


   まあ、いいのだけれど……。


 ニャーゴ。 「違うよ」


 タイミング良く短尾が鳴いた。心を読まれたみたいだ。

 それならばと、僕は続けて短尾に尋ねた。


「じゃあ、僕を気に入ってくれたの?」


 ニャーゴ。 「違うよ」


   いや、ほら、そこは「そうだよ」って言おうよ。


「じゃあ、何だい?」


 短尾が言うには、注意しろということだった。もう少しすると、北側におかしな「玉」ができるという。


「おかしな玉?」


 ニャーゴ。 「そう」


「どんなふうにおかしいんだい?]


 ニャーゴ。 「知らない」


 何のことだかさっぱりわからなかった。おかしいと言われても、想像ができない。注意しろと言われても、何をどうすればいいのかわからない。そんな話、彼からは何も聞いていない。いや、飛ばされていない。


 ニャーゴ。 「またね」


 そう言って去っていった短尾は、それきり部屋には来なくなった。

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