第9話 模型

 玄関を入ってすぐが板の間のキッチン。右手にガス台と二つの冷蔵庫があり、中にはすでに食料がたっぷりと詰まっていた。テーブルは卓袱台で、足が折りたたまれた状態で冷蔵庫に立てかけてあった。その前で一枚の座布団が、主人が座ってくれるのを待っていた。

 奥は六畳のたたみの部屋。横になるのもままならないくらいに、縮尺模型が占めている。正面の南向きの窓には緑色に染められた薄手のカーテンが掛けられ、月あかりを透して部屋全体をほんのりと緑色に染めていた。

 僕は卓袱台をどかして、冷蔵庫からトマトとキュウリを取り出した。丸かじりしながらカーテンと窓を開けて部屋の空気を入れ換えた。狭いベランダから見上げた空には、黄味がかったベージュ色の光を周りの薄雲に映す、明るい半月が浮かんでいた。



 僕の仕事が始まった。

 朝の日課は今もほとんど変わらない。レースのカーテンとサンダルのイボイボはないし、ストレッチはラジオ体操と呼んでいて、主食はパンではなく米飯だったが。

 一日五千キロカロリーの約半分を朝食で摂る。その一回で、冷蔵庫一個分がごっそり無くなった。もう一つ分を昼と夜で平らげるのだが、次の朝にはまたびっしりと食料が詰まっていた。当時の冷蔵庫だから、現在の大きさの半分くらいの容量だったろうか。


 管理人はおろか、アパートの住人と顔を合わせないことも、食料と同じく金銭を知らないうちに用意してくれることも、僕の存在が何かしらの問題として町の人たちを騒がせないことも、すべて彼の都合。時々、僕は実際にこの部屋に住んでいるのかと疑問に感じることがあった。


 やることといったら、昼夜の町の探索と縮尺模型との照らし合わせに終始していた。外食はしなかった。

 今にして思えば、最初に彼に呼ばれるまでの一年間はトレーニング期間だったのだ。就職に当てはめれば『試用期間』というところだろう。よく食べてよく翔ぶ。体力をつけて、人間世界に慣れるための一年だったのだと思う。初めてのでんぐり返しに面食らっていた僕に、彼が飛ばした意識が「やれそうか?」だったのが、その証だ。

 その問いかけにちゃんと答えなかったのに、すぐに部屋に戻された。彼は勝手に僕の意識を『拾った』のだ。二度目のでんぐり返しにも面食らったが、そのときだけは時と場所を考えてくれたのだと思う。座布団に座って、縮尺模型を眺めていたときだったから。


 僕の外見は変わらない。

 明るい茶の髪と瞳の色、肌の色、上下とも白の服装からしたら、外国人と思われてもおかしくなかった。好奇の目で見られるのはいたたまれなかったから、次第に昼間の外出は少なくなっていった。真っ昼間に外国人がフラフラしているのは、井戸端会議の主婦たちにとって格好の話のタネだっただろう。

 世の中は大戦あとの高度経済成長期で、男性達は盛んに働き、女性たちは家を守っていた。近所付き合いも今ほど希薄ではなく、町のあちらこちらに人の目があり、耳があった。けれど、それらによって町の秩序が保たれていたとも言えるだろう。


 部屋のほとんどを占める縮尺模型は実に精密で、その中でも小さな人々が動き、働き、眠って起き、生活しているような錯覚を起こすほどだ。朝になる毎、建築中の建物や道路、橋、いかにも人工的な公園が完成に近づいていった。春には花々が咲き誇り、夏には緑が生い茂り、秋には紅葉して、冬には枯れ木になった。

 小世界が僕の部屋にあった。だけどその美しさとは裏腹に、自然破壊の様相も同時に見て取れた。

 唯一実際の町と違うところは街灯がないこと。夜の外は電柱に付けられた明かりが通りを照らすが、部屋の縮尺模型にはそれがない。電気を消せば模型ごと暗闇の中に沈んでしまう。暗闇に目が慣れれば、薄手のカーテンを透して入る月明かりで物の輪郭くらいはわかったが。


 試用期間が終わってから半年ほどして、その小世界に変化が起きた。

 ある日から模型の中に、チラチラと光が見えるようになった。蛍のようにも見えたが、それよりもっと白くて、もっと小さかった。動き回ることもなければ、点滅もしない。建物と建物のすき間に。草木の茂みの奥に。池の中で光るものもあった。

 次の日も、また次の日も、光はそれぞれ同じ場所にあった。少しずつ大きくなり、少しずつ浮いていった。中には、急激に大きくなるものもあった。


 僕はそれが何かを知っていた。なぜ大きくなるのかも、なぜ浮くのかも知っていた。彼が教えてくれたわけではないのに、とにかくわかっていた。


 僕は、それが「玉」だと知っていた。

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