プラスチック・ボディ
頬が、胸が、雫に濡れていく。
視界は、まったく得られない。完全な闇の中に閉じ込められているかのようだ。重力も感じられない。どこまで続くのか分からない闇の中での浮遊感は、ことさらみのりを不安にさせた。
「おかあさん」
混濁した意識の果てで、みのりはその声と出会った。
意識下の何かが生み出した幻聴か、それとも肉体を失った霊魂からの呼び声なのか。みのりには判別がつかない。ただ、その声を懐かしいと思った。
(みの…ゲホッ…ゲホッ)
言葉を返そうと口を開くが、声がうまく出せない。息を吸い込むと、霧のような、湿って冷たい空気が肺腑に流れ込んでくる。
「おかあさん、思い出して」
その言葉と共に、みのりの脳裏に過去の記憶が蘇ってきた。
駅前のデパートのテラスから放った一撃。そうだ、「みのり」と一緒に放ったあの
「そうだよ、私たちは、蒼竜に一度勝っているんだよ」
光の弾丸は空を切り裂き、109km先を飛んでいた蒼竜の翼を見事に貫いたのだ。それが勝機を生み出したのだ。
「金剛竜は無敵なんだよ、おかあさん」
(分かってるよ。負けるものか)
ふふっ…と、小さな笑い声が聞こえた。
じゃあね、おかあさん、という声と共に、みのりの目が重たげに開いた。
…。
みのりっ! どこにいるのっ!
どこからか放たれた呼び声で、みのりは意識を取り戻した。
空耳ではない。その声は、確実に聞こえたように思えた。
暗い、雲の中にいた。
どれだけの時間、気を失っていたのだろう。地上が見えないということは、ほんの数秒に過ぎなかったのかもしれない。
翼を広げ、滞空した。真下に向かっていたベクトルが緩和され、みのりの身体はゆるやかに上昇を始めた。
左手のヴォーパル・ウェポンは、いまだ健在。高圧電流で体が硬直したおかげで、落とさずに済んだようだ。
ダメージを確認するように。右手で自らの身体をまさぐる。
胸に触れた時、カツンと硬質な音が聞こえた。
「!」
みのりは、絶句した。
見れば、むき出しとなった平らな胸は、細かいプリズムの鱗で覆われていた。
蒼竜の電撃から身体を守るため、鱗が生えたのだろうか。
触ってみる。鱗は、堅くて、冷たかった。
竜化という禁忌を紐解いたことにより、みのりの体は本来の姿に戻ろうとしはじめているのかもしれない。
顔や、足も触ってみる。幸い、他の部位は、鱗に侵食されてはいなかったようだ。みのりはわずかに安堵した。
自分が人間でないことは、よく分かっていた。
だがみのりにも、40年、人間として暮らしてきた記憶と、その生活の中で培われた価値観がある。
身体が鱗に覆われたら。人間としての姿を失ったら…。
思わず、唇を嚙む。
覚悟したことであった。だが、人外に変わろうとしている自らの身体を見て、みのりはわずかに、自分の判断を悔やんだ。竜の力を借りて、飛び立ったことを、後悔していた。
それは、人々を竜の脅威から守るべき、
だけど…。
みのりは、首を横に振った。
今は嘆いている場合ではない。この雲の先には、蒼竜が我が物顔で
雲を抜けた。
光の筋が、月夜を切り裂いた。
流星だろうか。
いや、違う。
その光は、明らかにこちらを狙っていた。
みのりはハッとなって、南の空を見た。
輻射点は定まっている。光線は、東京の方から飛んできていた。
閃光弾は、まったく見当違いに飛翔し、蒼竜をかすめる様子すらない。
だがそれでも、その光は、みのりの心を強くした。
「ありがとう…お母さん!」
今のさゆりの実力を考えれば、ここまで閃光弾を放つだけでやっとだろう。
だが、それでもみのりを助けたい一心で、魔法を放っているのだ。
心の片隅に生まれたわずかなとまどいも、逡巡も、完全に吹っ切れていた。
「いくぞっ! 蒼竜!」
翼を大きく羽ばたかせると、一度大きく北にまわって、蒼竜に向かって突撃する。
目前の的に、背後から射撃。これで蒼竜の意識を大きく分散させることができるはずだ。
ヴォーパル・ウェポンを握りしめ、ありったけの速度で、蒼竜の懐に飛び込んだ。
ヴォーパル・ウェポンから光の刃が伸びていく。
蒼竜が大きく口を開いて、稲妻を撃ち放つ。だが、プリズムの鱗に包まれたみのりの身体に、蒼竜ごときの電撃など通用しなかった。
蒼竜は上空へと逃れようとする。空気の薄いところに入れば、呼吸する必要があるみのりは追いつけないと考えたのだろう。
だが、今のみのりは人間ではない。竜なのだ。それにヴォーパル・ウェポンは、数キロ先の山ですら真っ二つにできる。
「逃げても無駄だっ!」
裂帛の気合いと共に剣を振り下ろした。それは蒼竜の左の翼を叩き切った。
姿勢を崩し、落下してきた蒼竜の身体を…
「これで終わりだっ!」
ヴォーパル・ウェポンを横凪ぎにすると同時に、重爆撃機のような蒼竜の巨体は泡となって霧散した。
「みのりちゃん、その身体…」
地上に降りたみのりの身体を見て、あおいは息を呑んだ。
「ははっ。ちょっと無理しちゃ…」
そしてすがりつくと、首を大きく横に振った。
「どうしたの、あおいさ…」
「ごめんなさい、みのりちゃん…ねえさん…」
あおいはみのりの身体を抱きしめ、子供のように泣いた。
「私はとんでもないことをしてしまった。死んだねえさんを、呼び戻して、こんな身体になるまで戦わせて…」
あおいが腕に力をこめた。だが、鱗がそのぬくもりを拒んだ。それがみのりには、少し悲しかった。
「私がバカだったんだ。鏡にそそのかされて、素体なんて作って。私はただ、ねえさんが無事でいられることだけを考えて、導具を作っていたのに」
なんて言えば良いのか、とっさに言葉が出てこなかった。
あおいが、よく言いよどんでいたのは、この後悔が原因だったのか。
大それたことをやってしまったと、そしてみのりに過酷な戦いを強いてたことに気づき、自らを強く責めていたのだろう。
最近のあおいは、持ち味の冷静さと皮肉屋的な明るさと無縁であるように思えた。さゆりの時には気づかなかったが、あおいはみのりに対して、強い罪悪感を抱いていたのだろう。
だがそれは、あおいなりに、さゆりを思いやった結果だ。
あおいはさゆりの事を第一に考えている。子供の頃からそうだった。いつも「さゆりねえちゃん」と呼んで、とことこと後ろをついてきたあおいなのだ。
ヴォーパル・ウェポンを腰に差して、まだ人間の形をとどめている左手で、あおいの頭を撫でた。
「鏡だって、分かっているんだよ。今のさゆり一人じゃ、竜王二体と戦えないことを」
「竜王が…二体…?」
「鏡は、この先起きる未来も知っている。ドラゴニック・アポカリプスが起きるんだ」
「…」
「金剛竜は最強にして無敵だけど、さゆりはその力をいまだ引き出せていない。ひきだせたなら、勝てたのなら、私は死んでいなかった。この世界に呼ばれることもなかった」
「…」
「だから、金剛竜が二体必要だったんだよ。鏡は冷静に、冷酷に、その事実を受け入れ、あおいの力を借りて、勝てる方法を選んだんだ」
「ねえさん…」
「大丈夫だよ、あおい。大丈夫だから」
みのりはやさしく、泣きじゃくるあおいの頭を撫でた。
雨は、いつの間にかあがっていた。
(つづく)
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