僕は誰だ?

桜人

プロローグ

「――ァ、ハァ、ハァ」

 さっきまで走っていたからなのか、それとも恐怖によるものなのか、男の息は上がっていた。辺りは真っ暗で、非常灯の小さな光がひどく心細い。

 コツン、コツンと、靴底が大理石の床を粗く叩くようなそんな無機質な音が徐々に大きくなる。

 男はその足音に向かって叫んだ。

「ま、待ってくれ! 分かった、話し合おう。だから――」


―●☆●―


『――続いてのニュースです。

 歴史学の分野で注目を集めていた早応大学教授の今泉照人さん五九歳が、七日の夜に殺害されていたことが明らかになりました。今泉さんは今朝、奈良県橿原市の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)資料館で、何者かに刃物のようなものを刺されて倒れていたところを資料館の職員によって発見されました。その後今泉さんは病院へ搬送されましたが、まもなく死亡が確認されたとのことです。

 未だ犯人の手掛かりは見つかっておらず、一刻も早い犯人の特定と逮捕が望まれます。


 ――生きている恐竜と遊んでみたい。そんな夢物語が実現する日も近いかもしれません。

 恐竜の軟組織からDNAを取り出してクローンを作るという試みが、アメリカの研究チームによって行われようとしています。研究チームは前例のない挑戦に興奮する気持ちと、また生命の禁忌へと踏み込むことに不安を覚えているが、何事もチャレンジだとして――


 ――相次ぐテロ事件。イスラム国か。

 昨日起こった神奈川県の爆発の犯人が、イスラム国の仕業の可能性があると中東情勢に詳しい――』



 TVニュースが二〇〇八年一二月八日今朝までに入った出来事を淡々と述べていく。しかしアナウンサーの声はある部屋の中から聞こえてくる泣き声にかき消されて、誰の耳にも入っていかなかった。いや、元々誰も聞いてなんかいなかった。何故なら、そのニュースの当事者たちこそが彼らだったからだ。

 ここはある病院の、歴史学者である今泉照人が眠る部屋の前の廊下だった。廊下でニュースを聞き流す彼らはみな照人の関係者で、今、部屋の中では彼の娘である今泉真優が照人の本人確認を行っている。彼ら――例えば照人の助手や古くからの友人――は真優の心情を慮って廊下で待っていたが、真優の悲痛な慟哭を扉越しに耳にして、みなどうやら本当に照人は死んだのだと悲しみに顔を俯かせていた。

「――ッ、ハァ、ハァ。照人さんは?」

 すると、その彼らの輪の中に一人の女性が駆けて入り、既にニュースで知っているであろうに照人の安否について訊いた。

 女性の名前は瀬田華蓮。奈良県警所属の、新人ともベテランとも呼べない、その二つのちょうど間くらいの年の刑事だった。彼女はこの事件担当の刑事ではなかったが、最近よく面倒を見ている後輩刑事(今泉真優)の父親が殺害されたと聞いて飛んできたのだ。

 華蓮は息を整えて、照人の関係者を見渡して、そこから自分の関係者でもある今泉晟を見つけ出した。

 今泉晟は照人の養子であり、そして真優のフィアンセであった。華蓮が真優から聞いた話によると、彼は幼い頃に両親を亡くし、照人の養子として今泉家に入ったらしい。そこで晟は真優と出逢い、そして今、真優のお腹の中には晟との子どもがいる。華蓮も何度か晟には会ったことが、華蓮はその晟の今まで見たこともない表情で全てを察して、口を噤んだ。そしてまた、先程と同じような状況に落ち着いていく。



 今泉真優は、名前の通りにどこまでも優しく、そして愛に溢れた人物だった。自分の周りにある涙の存在をとことん嫌い、時には自分が誰より深い傷を負おうと構わずにただ周囲の幸福だけを願うような、そんな純粋な思いからこの職業に就いた、あまり例を見ないタイプの刑事だった。

 それを知っていたからこそ、今この病院の廊下で佇んでいる彼らは真優が心配でならなかった。今新たな希望を体の中で育んでいる彼女の悲しみが彼女に、そして彼女の子どもにどんな悪影響を及ぼすのか、誰もが不安だった。

 だから、彼らは瞳に闘志という名の炎をともして部屋から出てきた真優の言葉に――今までどんな極悪人に対してもこれっぽっちすら恨みを持ったことすらなさそうな真優の言葉に――反応することができなかった。


「……捕まえてやる。私がっ、この手で、お父さんを殺した犯人に鉄槌を下してやる……っ」

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