八月の魔女は臆病者【完結】

成瀬なる

プロローグ

 これは、比喩でも、夢でも、妄想でもない。僕が、小学三年生の時に体験した、とても不思議な日常の物語だ。

 八月三十一日――毎日、飽きてしまうくらいに聞こえる蝉時雨が、どこか切なげな空気を運んでくるヒグラシの声に変わり、空の澄んだ青が淡い茜色に染められる夕方。

 僕は、独りで公園のベンチに腰かけていた。なんで、あの時、独りで公園のベンチなんかに腰かけていたのかは、今となってもわからない。

 友達と喧嘩をしたのかもしれない、夏の一日が終わってしまう夕暮れに抗っていたのかもしれない、それとも――一人の少女の帰りを待っていたのかもしれない。

 僕は、あの夏の額を汗が伝う蒸し暑い夕暮れの日、公園のベンチに腰かけていた。

 この公園は、海を見下ろせる高台にある。だから、眼下には、海の地平線に沈んでいく夕日が広がっている。

 どうして夕日は、振り向いてくれないのだろう。

 幼かった僕は、いつも考えていた。どれだけ今日を終わらせないでくれと懇願しても、手を伸ばして掴み取ろうとしても、夕日は、何も言わずに沈んでいく。

 その日の夕暮れは、いつも以上に寂しさを連れてきて、心にぽっかりと穴をあけていく。いや、僕の心には、元からひどく大きな穴が開いていたのだ。ただ、夏の午前中という爽やかな毎日が、その穴を無理やり埋めてくれていたのだ。

 夕暮れは、僕の本当の姿を露わにする。

 その日、涙を溢した。母に叱られたときみたいに泣きじゃくったわけではない、迷子になり、大声で誰かの名前を叫びながら泣いたわけでもない。

 ただ、沈みゆく夕日をみて、頬を一粒の雫が伝い、ぽろりと太ももに落ちた。

 

「泣いているの?」

 聞いたこのない声だった。でも、どこか懐かしさを感じた。とても柔らかく、繊細で、夕焼けの茜色に滲んでいってしまいそうな女性の声だ。

 いつから、僕を見ていたのだろう。この公園には、僕、一人だけのはずだ。

 女性は、隣へと腰かけて、白いハンカチを差し出す。

 でも、泣いている姿を見られたくない僕は、ハンカチを受け取らずに右手で目元を強引に拭い、地面に視線を落として答えた。

「泣いてない」

 女性は、クスリと小さく笑う。

「君は、いつもそう。 泣いている姿を誰かに見せようとはしない」

 この人は、何を言っているんだ。僕は、弱い。小学三年生などという肉体的な弱さではなく、心の問題だ。僕は、いつも独りで、誰かを探している。

「何言ってるの?」

 女性は、また、クスリと笑う。でも、今度は、何かを懐かしんでいるようにも思えた。

「私の話す言葉の意味が分かるときが来たら、君の涙は、綺麗に無くなるよ」

 やっぱりわからない。でも、その場を立ち去ろうという気にはならなかった。

 もう少しだけ、もう少しだけでいいから、この女性と話をしていたかった。

 夕日は、海の中に沈んでいき、辺りは、薄く彩られる。

「そろそろ、日が暮れる。 夏の日の入りは遅いけど油断していると真っ暗になるのはあっという間だね。 私の話に付き合ってくれてありがとう。 はい、お礼」

 女性は、僕の正面へと行き、一本の缶ジュースを差し出した。

 僕は、一度、女性の目を見て、微笑むのを確認してから受け取る。

 とても冷えていて、見たことのない缶だった。深い赤の上に白のスペルで……

「ドクターペッパーって読むの、君、これ好きでしょ?」

 ドクターペッパー……聞いたことのない飲み物だ。僕は、一度も飲んだことがない。

「じゃ、私は、そろそろ行くね。 バイバイ」

 女性は、小さく手を振ると、一度も振り返らずに公園を出た。

 僕の手には、ドクターペッパーが握られている。小学生の純粋な好奇心で、飲んでみたかった。

 ぎこちない手つきでプルタブを開け、少しだけ吹き出る炭酸に目を瞑る。そして、一口だけ口に含んだ。強い炭酸と鼻を抜ける杏仁豆腐のような独特の風味が口いっぱいに広がった。

「おいしい!」

 僕は、この夕暮れからこの飲み物が大好きになった。

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