箱の中

浅治 ユウ

第1話

人の心とは何か。


 友人であった男に昔、俺はそう聞かれたことがあった。うまく答えられずに俺は曖昧あいまいな答えを返したように思う。以前から意地の悪い質問をする男だった。だからと言って答えられないことを馬鹿にしたり嘲笑ちょうしょうするような男ではなかった。むしろ自分で答えの出せない問いかけの答えを他人である俺から頂戴ちょうだいしようという純粋じゅんすい心持こころもちであったのだと思う。


 男—椎日しいかと俺は呼んでいたのだが、椎日は小説家であった。人間の心や気持ちを言葉で表すことを仕事としていた。そのくせ、自分のことを言葉にするのは苦手であった。そんな椎日を俺はあわれに思うこともあればそれゆえに美しいと感じることもあった。椎日は軽々しく言葉を使わずに大事に大事に温めぬいた言葉だけを扱った。人が生きていく上で一番費やすであろう無駄むだな時間を椎日は持たなかった。だからこそ俺は椎日に恋慕れんぼにも似た心を持ちたのだと思う。



 俺が椎日と出会ったのは京都の清水寺きよみずでらであった。清水寺というと、あの紅葉もみじの美しい本堂で会ったのかと少しロマンチックな匂いがするかもしれないが、実際じっさいは違った。俺は三年坂さんねんざかを通り抜け清水の参道に出ると、ひしめきあう観光客の群れを見た。俺にはその人の群れがどうしても朱色あかいろえさに群がるありのようにしか見えず気味が悪くて一度三年坂へと引き返したのを覚えている。そこから只管ひたすら俺も朱色の建物を目指して上へ上へと歩いた。途中、陶器とうきや人形、八橋やつはし漬物つけものといった様々な土産物みやげもの目移めうつりしては足を止める人の群れにき飽きした。何とか善光寺堂ぜんこうじどうと呼ばれる清水寺の境内けいだいの入り口における場所まで来た頃にはひどく疲れていた。一度行ったことがある人はわかるかもしれないが、この時点で可笑おかしなことに気づく。長い参道を上る前は観光客の群れは皆、朱色の建物に向かっているのかと思っていたが、上まで辿り着いてみるとどうやらそれが違う。段々と土産物屋に吸い取られていくのだから清水寺に入るときにはすっかり人がいないように感じた。それが俺に一種の清々すがすがしい気持ちを持たせたが、俺は椎日にそこで出会ったのだ。清水寺に入ってしまえば人の群れ。引き返して参道に行けば人の群れ。その中間地点の、ポッカリと空いた人気のない穴で。椎日は馬駐うまとどめと呼ばれるところにいた。馬駐とはその漢字の通り、昔、お偉いさんが馬で清水寺へ来たときに、まさか其の儘馬で参拝するにも行かないので馬を停めておいたところだ。今でいう木造の自転車置き場のようなもので、勿論今は馬もおらず特に見るものもないからと参拝者がこぞって見向きもしないところであった。


そこに一人立っていたのだ、椎日は。


 昼から雨が降るという日で、丁度、ぽつりぽつりと肌を刺激するような雨が降り出したところだった。それを知ってか知らずか椎日はずっと其処にいるようだった。色鮮やかな傘が、我先にと開いていく中で、俺は頭無あたまなしに傘もささず椎日を見ていた。喧騒けんそうと雨の匂いで少し浮ついたその場では、俺と椎日だけが静かであった。俺は我慢がまんならずにそっと椎日に近づいた。服を濡らし始めた雨で椎日が存在まで消されてしまいそうだと、言いようのない不安に追われていたのを覚えている。少し近づいたところで、俺はそれ以上近寄ることができないと感じた。ああ、このまま椎日が消えるのを見るのかと本気で思った。だが椎日は消えなかった。むしろ俺と目を合わせて、いや合った気がしただけかもしれない、人は自分の思いが大きすぎると大きな誤解ごかいすらも気づかなくなるから、ただ、俺はあの時、椎日に見られていると感じたのだ。ふいに足のつま先から血液が逆流して、全身が酸素を求めているような息苦しさが俺を襲った。俺はあの瞬間まで全く、自分が臆病おくびょうなどと考えもしなかったし、むしろ人よりは肝が据わっているのだと自負すらしていた。だがその時の俺は恐れていた、怖かった、自分が心底では臆病であったのだと自覚した。それほど椎日に見られたという意識は、俺の中に強く響いたのだ。


 あの時、目が合った椎日は、俺に何かを言ったのだ。それを俺が少なからず把握できたのは椎日の口がゆっくりと動いたからであった。せわしない蟻の動きは最早もはや俺の意識にはうつらなかった。俺はただ椎日を欲して、彼の全てを余すことなく見たいと細胞を椎日に向けて開いていたのだ。俺はしばらくそのままであったが時期に、椎日に手招きされ、これも俺の意識の問題であって、今ではそう勘違かんちがいしただけだと思うが、引き寄せられるように馬駐の中へと入っていった。

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