ヒヤシンスブルーと恋

浅治 ユウ

医者の無養生と灰色の女

 生まれたときから病院は身近にあった。


 京都市内のそこそこおおきな病院で父親が働いていたからだった。俺は別に病気がちでもなければ、むしろ健康そのものだった。父親も母親も「医者の不養生」なんていうことわざを少なからず気にしていて俺に対しても健康に気を付けさせていたからだろう。そんな、健康でありながらも俺は小さいころから毎日、病院へ通った。両親は、そのことを快く思っていなかっただろうが、さして何も言わなかった。大方、寂しくて父親の仕事場に行くんだろう、なんていうかわいらしい妄想さえしていたようだ。だが生憎、父親に会いたくて、なんて餓鬼らしい理由じゃなかった。受付の前の椅子に座って、入れ代わり立ち代わり入ってくる病人やその家族をただひたすら俺は見ていた。すべてが真っ白に見えた。10歳くらいの時に、父親に「病院が好きだ」といった。働き盛りの40手前であった父親の白くも血色のいい顔が少しこわばるのをかんじた。一言、「なんでだ。」なんて聞いてくれれば、察しの良い俺のことだから父親のその反応を見てとっさに都合のいい答えを返しただろう。人の命を救う場所だから、とかなんとかね。でも父親は何も言わなかった。きっと臆病だった。俺が病院を好きなのは例えば病人を見るのが楽しいだとか生死の交わりに興奮するだとか、そんなイレギュラーなものじゃなかった。もっと単純で、もっと感覚的なものだった。無機質で真っ白の病院が、好きだった。


 俺は父親の勧める大学付属の私立中学へ、病院まで徒歩で30分だからという理由で快く入学した。それが四月、今から二か月前のことだった。春のさわやかな風と一緒にスタートした俺の学校生活は、六月のじめじめにも負けずに順調だった。ただ病院へ通うことはやめなかった。そこそこの、友人になりかけ程度のクラスメイトと戯れて付き合いがてらに放課後は少し遊びに行く。ただ、毎日きっかり、5時30分。知り合いが入院してるんだと言って病院へ向かう。そんな毎日だった。


 いつものように俺は受付の椅子、特に後ろから2番目、左のはしっこ。大きな窓に一番近くて庭が一望できる席に座っていた。何も考えずにぼーっと俯瞰で病院を見ている気になって、そこを行き来する真っ白な人たちを眺めていた。するとふいにその視界が遮られたかと思うと俺の横に女が座った。同じ年ほどに見える女はh難しそうな洋書をもっていた。表紙はヒヤシンスブルー一色で、ドイツ語だか何だか知らないが横文字が書かれていた。真っ白な病院で、その色はとても新鮮に思えた。女はふいに俺の方へ少し体を向けて


「いつもいますよね。」


 と俺に言った。遠慮がちな喧騒の中、女の声は意思を持つかのように俺の耳に届いたから俺はすぐに自分に言っているのだと分かった。は、と俺は素っ頓狂な声を出して女の方を見た。目が合った女はにっこりと笑った。日本人なのか、と一瞬疑うような筋の通った高めの鼻に少し色素の薄い栗色の髪を肩上ほどで切りそろえていた。一般に、そこそこ人目を惹くであろう容姿に思えた。だが何より俺は、澄んだグレーの瞳に魅入った。


「ああ、はい。います、いつも。」


 俺は少々どもりながら、ヒヤシンスブルーに目を落としていった。


結崎ゆいざきと言います。」


「はい、…俺は、高野たかのです。」


 俺がそう答えると結崎はよろしく、と笑った。グレーの目が細くなって小さな薄い唇がやんわりとカーブを描く、結崎の笑顔に見惚れた。


 多分、一目惚れだった。


 俺はそれからも毎日、いつものように病院へ通った。以前までと同じように真っ白な病院で真っ白な人たちを眺めた。でも矢張りどこかであのヒヤシンスブルーを俺は探してしまっていた。ただ彼女がこの病院に通っているのか、もしくは入院しているのか、家族の連れ添いなのか何もわからいままだった。

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