第54話・卒業制作

 3年生になると、みんなそろそろ卒業制作に取りかかりはじめる。卒制は、美術科にとっては、高校生活の総決算となる大仕事だ。

 わが美術科の卒業制作展(卒展)は、県立の美術館の一角を借りて大々的に行われる、歴史と格式があるものだ。当然、展示作品には高いクオリティが要求される。世間一般に対する対外的な体裁もあるが、それに増して、ライバルでもある同級生の前で恥ずかしいものは出せない、という競争意識が働く。これは、芸術家の卵としての自尊心を賭けた戦いだ。誰もが真剣に取り組み、最高傑作をそこにぶつけてくる。負けるわけにはいかない。

 さて、わが彫刻科はこれまでずっと、粘土や石膏を使った基礎的な作品づくりをつづけてきた。それは美大・芸大の入試対策だ。彫刻の世界における「立体的なデッサン」ともいうべきものが、塑像なのだ。対象そのものの形をシンプルに写し取る塑像作品は、制作者のテクニックをあからさまに露呈する。それは、いわば才能と鍛錬の鏡のようなものだ。真面目に修練を積んだ者はうまくつくるし、才能もなく努力をも怠った者は惨めな作品しかつくれない。そこは、基礎学力と同様といえる。卒展の場で彫刻科は、この塑像作品を一点ずつ出すことになっている。が、例の裸婦を石膏で仕上げた人体像だけでは、展示品として見栄えがしない。そいつは、個別の芸術性を排した、ただの素描にすぎないのだから。そこでもう一点、別のアプローチで、自主制作の作品をつくらなければならない。自分の芸術観を反映させた、フリー課題の勝負作品だ。こちらの方は、技術もそうだが、なによりも独創性を問われることになる。これは事実上、自分にとってはじめてのアイデンティティのオーディションの場となる。腕が鳴るというものではないか。

 ところで、よく公共の場(街角や、広場、建物のエントランス)に裸の女性像が立っている。あれは、まずい。どこの間抜けな彫刻家の仕業か知れないが、とんでもなく場違いだ。作品そのものの出来が恥ずかしいものが多い上に、周囲との調和がないのも恥ずかしい。「浮いてる」「空気を読んでない」とは察せられなかったものだろうか。そもそもこの時代において、あの素っ裸の具象塑像は、わいせつ物陳列か、あるいはセクシャルハラスメントに触れそうなものだ。あれを観せられて、「美しい」と思うひとはいまい。「エロくて見ちゃいられない」「意味がわからない」あたりが、真っ当な人間の正直な感想だろう。裸の人間を街角に置くのは、ローマ時代か、さいあくバロックあたりで終幕にするべきだった。なのに、外国の町並みをマネるのがかっこいいものと信じる日本人は、2000年も前に流行り、すっかりすたれた様式を、和式のわびたたたずまいの街角に唐突に再現してしまうわけだ。噴飯ものの勘違いではないか。あの手の人体塑像は、肉体のフォルムを理解するための修練というべき作業なのであって、本来ならこっそりとやるものだ。素描は、それ自体は作品になり得ないのだから。

 話がそれたが、オレは卒業制作展の目玉にしようと、土ではなく、もっとイカツイ素材を手に入れた。それは、石だ。

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