第42話・のぼちゃん

 クラス担任は「のぼる」という体育教師だ。30歳前後か・・・日焼けした肌が黒すぎて、年齢が読み取れない。大阪体大のハンドボール選手だったというのぼるは、スリムだが逆三角形のムキムキの肉体を誇っている。パンチパーマに、常に上下ジャージ(夏場はタンクトップ&短パン)という出で立ち。大声の出し過ぎと酒にのどを焼かれたせいで、声はガラガラにしわがれている。顔貌は、まるで打たれすぎたボクサーのようだ。しゃくれたアゴは尻のように割れ、腫れまぶたと落ちくぼんだ眼下の底に据えられた目だけがギラギラと光っている。ぱっと見、飢えた猛禽類のような印象だ。

「のぼちゃんと呼んでくれ」

 それが、のぼるの最初の挨拶だった。意外に気のいいやつなのだ。

「酒はいいが、タバコはいかんぞ」

「子供ができたら、すぐに俺に言え」

 すべてが体育会のノリだ。今でも体大にいるつもりらしく、ヒマさえあればグラウンドに出て、走り込みをしている。いつまでもいつまでも走っている。照りつける日差しをあびて黙々と走りつづけるその真っ黒な影は、獲物を探し求めるサバンナの狩猟民族の姿そのものだ。

 こんな調子のため、のぼるは教師陣の中でも完全に浮いた存在となっている。県下の優等生を根こそぎにかかえ込むわが校には、選り抜きのエリート教師が集められている。そこになぜこの粗野な男が混じり込んだのかは謎だが、普通科棟にひろびろと設えられた職員室に、彼と話が合う仲間はいまい。のぼるは、まさに「異色の人種」なのだ。そんなわけで、わが美術棟一階、運動用具庫の脇に特設的につくられたせま苦しい体育教官室が、のぼるの寝ぐらだった。休み時間にも、居所がないのか、職員室にはめったに近寄らず、体育教官室でひとりで過ごしている。オレたちはその姿に、手に負えない野獣が優等な生徒たちから隔離され、この薄暗い営倉に閉じ込められているのだ、とウワサし合った。とにかく、この奇妙な体育教師が、オレたち1-美の担任となったのだった。しかしのぼる側としても、面倒な生徒たちをしょわされたと感じているか、気楽なクラスをまかせてくれたと感じているかは、定かではない。

 さて、学科の授業で普通科棟から次々と送り込まれてくる教師陣は、実に優秀だった。授業内容は難解でも、言葉は平易で、論理的、かつ面白いのだ。信じがたいほどにわかりやすい。しかも、こんなにいい教師とは巡り会ったことがない、というほどの教育のスペシャリストが、次から次へと繰り出されてくる。教科書の上っ面をなぞって記憶するだけだった中学時代の教育とは、クオリティがケタ違いだ。スポンジが水を吸収するように、高度かつ高密度な内容が理解でき、しかも放っておいても脳内で整頓されていく。そんな、快感とも言いたくなるような成長感をはじめて味わった。入ってくる、という実感は、勉強のたのしさに目を見開かせてもくれた。この先生たちのおかげで、美術科のアウトローたちは、劇的にかしこくなっていく・・・はずだ。

「よいしょーっ!よいしょーっ!よいしょーっ!」

 一方で、のぼるの授業は、あまり知性を感じさせるものではなかった。両腕両足を曲げてちぢこまって力をため、「よいしょーっ!」のかけ声で空に向かって伸び上がる「天突き体操」が、この体育バカは大好きなのだ。

「こらー!もっと大声を出せーっ!」

「よいしょーっ!」

 体育の授業時間の前半は、この滑稽なうんこ体操に費やされる。ちなみに後半は、当時まったく世に知られていなかった「ハンドボール」なる競技の練習となる。オレたちはうんざりしながら、のぼるの均整のとれた肉体から正確無比にくり出される天突き体操に従い、尻を上げたり下げたりした。

 この天突き体操を、オレはのちにテレビ画面の中に発見し、驚愕することになる。そのドキュメンタリー番組のナレーションは、こう語っていた。

「・・・受刑者たちは毎朝、この天突き体操によって、せまい獄舎の中で凝り固まったからだを伸ばすのである」

 のぼる、ひょっとして前科者?

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