第26話・新居

 お父ちゃんが空に描いてみせた設計図は、実際に質量でもって空間を埋め立てていく。土台ができ、柱が立ち、床板が張られ、壁がぬりたくられ、内装が整っていく。その過程はたのしいものだ。週末ごとに家族そろって見にいき、みんなで心を浮き立たせる。

 ある日学校から帰ると、ごぼぜこ通りのわが家の前に、戦艦のようなトラックが横付けされていた。いよいよ引っ越しの日がやってきたのだ。道幅いっぱいもある巨大な荷台の上に、大男たちがタンスやらミシンやらちゃぶ台やらを山盛りに積み上げていく。マッチ箱のようなあばら屋から、途方もない量の家具と荷物が出てくる。それがみるみるうちに小山を築き、幼いオレはあぜんと見上げるしかない。祭りの山車のように天を突く高さになった荷は、両サイドから縄を渡され、固定されていく。今にもくずれ落ちそうで、まったく心もとない。が、たいした仕事っぷりだ。戦艦は平然とエンジンに火を入れ、ガタゴトとごぼぜこ通りを出ていった。

 幼い日を過ごしたわが家にお別れをするべく、各部屋を見てまわる。空っぽとなったこの建築物が、まったく頼りない細柱の骨組みと薄板と土とでできていることがわかって、興味深い。踏み固められたタタキ、立て付けの悪い雨戸、黒光りする板づくりの急階段、裸電球、ポットン便所、土蔵、ポンプ式の井戸・・・戦後感覚満載の家屋だ。さよなら、三軒長屋。

 ごぼぜこ通りの友だちともお別れをしなければならない。と言っても、学区が変わるわけではないので、明日もまた小学校で顔を合わせることになる。しかし、もう一緒にごぼさんでセミ獲りをすることもなくなるだろう。さよなら、たのしかった日々。

 かくてわが一家は、新居に入城した。今日から、ここが自分ちだ。白木のかんばしい匂いが漂っている。ワックスを掛けたての床は、驚いたことに真っ平らだ。デコボコに慣れた足の裏に、しっくりとこない。部屋にも天井にも光が満たされ、すすけて薄暗かった長屋とは雲泥の差だ。なんだか落ち着かない。ひとんちにいるみたいだ。だけど暮らしていくうちに、ホテルのようなこのよそよそしい空間にも徐々に血が通っていくはずだ。とりあえず、このきれいすぎる空間にギクシャクと身を置いて、なじむのを待つしかない。

 夜。荷解きもしないで、布団だけを引っぱり出し、それぞれの部屋で休む。田んぼの中に、ぽつんと一軒家。「伊吹降ろし」の風がひょうひょうと吹きすさんでいる。隣家にケンカ声の聞こえない頼りなさ。ひどく不安定な気持ちにさせられる。天井のトンネル模様も気になって眠れない。

 しかし、人間は慣れてしまうものだ。新建材は、はじめのうちは尻の据わりが悪かった。が、ピカピカの壁や柱にもやがて手垢がつきはじめると、すっかり自然に過ごせるようになった。

 廊下の天井は、長屋よりも10センチは高い。床を蹴って思いきりジャンプすると、そこは指先に触れるか触れないかというギリギリの高さになる。小6になったオレは、背の低い順に並ぶと、前から三番めほどのチビだ。そこで、この天井を利用して背丈を伸ばしてやろうと思い立つ。学校から帰ると、牛乳の1リットルパックを一気飲みし、廊下に出る。そして天井に向かっておもむろに垂直跳びをする。天井に指を触れることができれば1点で、合計10点をカウントするまでジャンプはつづけられる。毎日、へとへとになるまで跳びつづける。バカバカしいと思えるこんな方法も、継続すれば功を奏すものだ。半年もたつと、チビすけの背は「飛躍的に」伸びていた。あれほど渾身の跳躍をしなければ届かなかった天井に、手の平でやすやすとタッチできるようになっている。跳躍力がついただけかもしれないとも思ったが、身長を測ってみると、柱に記したせいくらべの鉛筆線(勝手に書くな!と叱られるが)は日に日に伸びていく。高いところのエサを望めば、背が伸びる。動物進化のメカニズムとは簡単なものだ。オレはいよいよ調子にのって跳びつづける。おかげで廊下の天井は、オレの汗まみれの指跡で真っ黒になっていく。そして叱られる。天井を汚すな!というわけだ。

 ある日お父ちゃんが、折りたたみ式の卓球台を買ってきた。競技に使うのと同じ、つまり学校の体育館にあるあの巨大なサイズのやつだ。家が広くなって、気持ちも大きくなったのだろう。豪勢なものだ。家族がそろう週末には、そいつを応接間まで引っぱり出して卓球大会だ。これが実にたのしい。しかし、みんながいない平日の夕方には卓球ができない。そこで、真新しい壁に向かってひとりで壁打ちをする。密かに上手くなって、みんなを出し抜きたいのだ。壁にはくっきりとボールをぶつけた跡が残る。それによって、自分の球筋を分析できる。ところが両親には、この壁のデコボコがなんなのか、さっぱりわからない。日に日に増えていくその痕跡の原因をついにオレが白状すると、やはり叱られた。壁を傷つけるな!というわけだ。新築の家とは、大切なものなのだ。

 その頃学校では、ガビョウ製のダーツが流行っていた。そこでオレは、こっそりと本物のダーツの矢を購入し、自分の部屋の壁に三重丸を描いた紙を張って、それに向けて投げて遊んだ。小6のオレには、的の裏の壁がどうなるかをイメージすることができなかった。ある日、的を見つけたお母ちゃんは、その紙をはがして卒倒した。無数の穴が口を開け、まるで蜂の巣のようになっていたのだ。以後、ダーツは取り上げられ、壁に向けてものを投ずることは厳禁となった。

 弟の部屋とオレの部屋とは、引き戸で分かたれている。朝になると、お父ちゃんがこの戸を全開にして風を通そうとする。思春期の入り口にいたオレは、この開けっぴろげに反発した。そして引き戸が開かないように細工をして、自分の部屋を密室にしようと試みた。非常に巧妙な装置を、両部屋間に施したのだ。その翌朝、お父ちゃんは戸を開けようとするが、なにかがつっかえて、いつものように開けられない。いぶかしく思ったお父ちゃんの調査がはじまる。そしてついに、まっさらで美しかった戸に大穴があき、五寸クギで留められているのを見つけて、大激怒した。

「新築なんだぞ~っ!」

 こうして新居は、徐々に汚れ、傷つき、入居者たちの皮膚になじみ、居心地よくなっていく。

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