第27話・きつねあな

 「きつねあな」は、田んぼばかりの地域だ。上空から鳥の目で見れば、田んぼの「田」の字の成り立ちにつくづくと得心がいきそうだ。見渡すかぎり、稲穂の海より他にはなにもない。空は高く広く、地平も茫洋とし、店がない、街角がない、ひとの行き来というものがない。広場は、つぶれたボウリング場の駐車場があるが、ここで遊ぶにしても、周囲に子供がいない。新興住宅地と言えば聞こえはいい。この地域では、田んぼだった土地が整地されつつある。これからどんどん家が建っていくことだろう。が、その第一号入植者である我々家族は、以降の街の発展を待たなければならない。その間に、オレは大人になっているにちがいない。まったく悠長な話だ。

 小学校には、徒歩ではるばると30分ほどもかけて通わなければならない。何度か、家から学校まで何歩かかるかを数えようと試みたことがあったが、そのカウントは自分の根気と算術能力をはるかに超えるため、たちまちあきらめた。たまにごぼぜこ通り経由で帰ってみたりすると、そこは子供たちのはしゃぎ声と往来の活気に満ちていて、いかに自分が恵まれた環境で育ったかということをはじめて認識できる。そこには毎日立ち寄れる駄菓子屋もあるし、気軽にひやかせるオモチャ屋もあるし、本屋、文房具屋、床屋に風呂屋、八百屋にスーパーもある。このにぎやかな往来に比べたら、きつねあなは荒野だ。

 お母ちゃんは内職を辞め、家のローン返済のために、保健所でパートタイマーとして働きはじめた。仕事内容が珍しいらしく、よく晩飯の最中に、検便のベンの様子を話題に持ち出したりして、ひんしゅくを買う。また、家庭料理もろくな腕前ではないのに、ふぐ調理師免許の試験監督をやったりして、鼻高々になっていることもある。さらに問題がある。心やさしい彼女は、捕らえられてきた野良犬の薬殺を看過することができないのだ。明日、死刑台に上る、というタイミングで「待った」をかけ、持ち帰ってきてしまう。幸いなことに、三軒長屋とは違って、この家の庭は広い。じゃ、飼うか、ということなる。「シロ」と名付けられたその犬は、お父ちゃんのジョギングの格好のパートナーになった・・・と、ここまでは美しい物語だ。ところが、お母ちゃんはとてもやさしいのだ。死刑台に上る寸前の犬を、その度に連れ帰ってきてしまう。一方のお父ちゃんもやさしいひとだ。新しい犬をまかされると、一日に何度もジョギングに出かけていく。しかし最終的にはきりがなくなり、四、五頭をまとめて鎖につなぎ、あぜ道を走っていた。多くの野犬に引きずられ、振り回される父親・・・その姿はまるで、ソリを失った男の犬ゾリレースのようで、危険極まりない。それでも、お母ちゃんもお父ちゃんも、自分が信ずる博愛を躊躇しようとは考えなかった。

 ばあちゃんもまだバリバリ現役で働いている。お父ちゃんはもちろん会社員だ。そんなわけで、大人たちは日中、みんな出払っている。子供が家に帰り着くと、そこには誰もいない。夕暮れまでのわずかな時間だが、巨大な城は子供たちだけで守衛しなければならない。近所に友だちはいない。シロの散歩に付近を一周しても、誰とも出会わない。つまらない。自分の部屋にこもると、深刻な孤独感が襲ってくる。弟も同様だったろう。仕方なく、オレと弟は、隣のボウリング場のだだっ広い駐車場で、キャッチボールをして時間をつぶす。毎日、毎日、キャッチボールだ。そのおかげで、速球の威力とコントロールは信じがたい精度にまで高められたが。

 天気のいい週末は、田んぼの脇を走る用水路でザリガニ採りをする。ごぼさん周辺のトンボやセミの王国とは少々違って、きつねあなの小川にはさまざまな鳥獣虫魚が生態系を形づくっている。ザリガニをはじめ、メダカ、オタマジャクシ、フナ、アマガエル、ウシガエル、ヘビ、ライギョ・・・そんな連中が、食いつ食われつして、日々を闘っているのだ。人類も参戦しないわけにはいかない。用水路を伝って細流にまで入り込んでいくのは、結構な大冒険だ。自動織機のけたたましい音もなく、車の行き交う騒音もなく、空にはヒバリのさえずり声、地面には虫たちのチリチリとうごめく音、水面には小魚の跳ねるしぶき・・・はじめて踏み入る世界にドキドキする。

 夕闇が落ち、ふと見ると天守閣の窓に明かりがともっている。カレーの匂いがぷんと漂ってきて、やっと自分がハラペコであることに気づく。真っ黒な足の裏やスリキズだらけのひざ小僧を水で洗い流し、まばゆいキッチンのテーブル席に座る。お母ちゃんの笑顔が輝いている。犬が増えている。お父ちゃんは残業することもなく、夜の6時半には寝巻きに着替え、キリンビールの栓を抜いている。ばあちゃんは化粧を落としている。ファンタが用意されている。ローンはかかえても、幸せな新居生活。一家そろって、たのしいたのしい晩ご飯がはじまる。

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