N5-4

 特技があったら、人に見せたい。当然のことだ。誰だってそうだ。


 自分が「できること」をしたい。見せたい。それは人の原初的な欲求のひとつである。

 それが他人にはできないことなら、なおさらだ。ついでに褒められたりしたら最高だろう。


 一色葵も最初は、そういう子どもだった。


 スポーツ万能な子として、持て囃された時期があった。葵も体を動かすのは大好きだった。ドッジボールでもサッカーでも、チーム分けとなるとまず葵の取り合いになった。


 そこで活躍するのは何よりの楽しみだった。最初はそれでよかった。

 だがすぐに、周りは気づき始める。葵は、他の子より「できる」レベルではない。他の子とは「違う」のだ。


 そしてある日の出来事で、それは決定的になった。


 たまたま、鬼ごっこで鬼になった時だった。追う側に回った葵はまさに鬼神だった。タッチしようとして突き出した右手は、人に怪我をさせるのに十分な威力だった。その右手は、いちばん仲の良かった友達の「サキちゃん」を傷つけてしまったのだ。


 その日から、葵が参加するのは「反則」になった。


「ご、ごめんね。お母さんが……もう葵ちゃんと遊んじゃ、だめなんだって」


 サキちゃんは怯えたように一歩引きながら葵に告げた。それ以来、ちらりとこちらを見ることはあっても、話しかけてはくれない。


 両親はあちこちに謝って回ってくれたが、周囲の子の反応までは変わらなかった。それまでも言われてはいたが、家の外で全力を出すのは厳格に禁止となった。


 体育座りでみんなが遊んでいるのを眺めながら、葵は思った。

 また、友達を作りたい。でも自分は、体を動かす以外で、人と関わる方法を知らない。


 ――お父さん。

 ――この技を使っちゃいけないのなら。

 ――わたしには一体、なにができるの……?


 頭が良いわけでもなく、人とのコミュニケーションも苦手な葵には、本当に「できること」がなくなってしまった。周囲に怖がられないように、足音を消して歩く。口数も少ない。やがて彼女は、存在感を失い透明になっていった。


 それでも家では、父から暗殺拳を習い続けた。


 単に伝統だからというのもあるが、今やこの修行だけが、葵が「特技」を発揮できる時間なのだ。奥義を覚え、技を磨けば父は褒めてくれた。父が出かけている日は、ひたすらイメージトレーニングを繰り返した。葵の生きがいはそれだけだった。


 なのに。……なのに。




 十四歳の時に、その父は死んでしまった。




 最初はただただ、わけがわからなかった。理解ができなかった。

 一週間ほどして父がもういないことを実感すると、その時になって悲しくなり、涙が止まらなくなった。


 そして一か月が過ぎ、涙も涸れ、父のいない生活がようやく日常となった頃。

 ……一色葵は、何もすることがなくなった。


 もともと葵の生活は、学校と修行だけだった。

 学校には欠かさず通い、授業はすべて真面目に受ける。

 授業が終わればまっすぐ家に帰る。そこには父が待っていて、家に伝わる「技」の練習が始まる。


 その時間さえあれば葵は生きていけた。目の前の課題をこなし、ひとつひとつ技を身に付けていくのはむしろ楽しいと言っても良いくらいだった。


 そう。それだけが、楽しみだったのに。


 父がいなくなり、「墨式ぼくしき」が途絶えることが確定し、葵が技を継ぐ意味もなくなってしまった。墨式は完全な口伝であり、もちろん教科書もない。葵はここから先をどうやっても身に付けることができない。


 もう修行に時間を使う必要はない。葵は全てから解放された。

 だが彼女にとって解放とは、虚無そのものだった。


 学校から帰っても目の前には何もなく、今までのように体を動かして覚えた技を復習してみても、ここから先に覚える技はどこにもない。

 とはいえ他に何をすればいいのかも、わからない。葵にはもう、「できること」が何もないのだから。



 何もない。何もない。何もない。



 陽が落ちていく薄暗い部屋で、ただただ横たわった。

 そうしていれば時間は過ぎてくれた。

 見かねた母が漫画を買い与えてくれたこともあった。それはいくらか救いになった。


 一度読み終えても、同じものを何度も何度も読んだ。

 やがてそれにも飽きてきた頃、自分自身と漫画のキャラクターを戦わせるという遊びを見つけた。父のいない日にイメージトレーニングしていた、あの頃のように。


 色々な技を覚えた自分は、フィクションの格闘家とも互角以上に戦うことができる。葵はそうして退屈な現実から逃避し続けた。そうするしかなかった。


 孤独な部屋の片隅で、彼女はほくそ笑んだ。


「……わたしの勝ち」


 それが一色葵十六歳の日常だった。




 結局、暗殺拳は彼女を孤独にしただけだった。葵から外との繋がりを奪い、今や、自分の目標にさえならなくなってしまった無用の長物。己の体に宿したまま墓まで持っていくしかない秘密。それが葵にとっての墨式だった。


 あの日、鋭一と出会うまでは。


***


「葵…………」


 鋭一は絶句した。正直、返せる言葉がなかった。そして、少しの罪悪感が芽生えた。


「なんか……ごめんな」


 口をついて、謝罪の言葉が出た。今こうしてカップルまがいのことをしているのだって、成り行きのようなものなのだ。鋭一の「告白」は、本気の告白ではなかった。なんだか葵を無駄に振り回してしまっている気がした。


 何より……知らなかったとはいえ、彼女の暗殺拳を、よりによって遊びに使おうと誘うなんて。


 もちろん、葵と付き合うのは鋭一にとって嬉しいことだ。こんなに可愛い女の子と一緒にゲームをして、漫画の話もできて、今日だって楽しかった。おまけに彼女は強くて、ゲーマーとしても、とても頼りになる。


 だが結局それは全部、自分の都合じゃないか――?


「鋭一」


 葵が、名前を呼んだ。鋭一は横を見る。葵は、首を倒していた。「疑問」のサインだ。


「なんで鋭一、あやまる……?」

「いや……なんか軽々しく遊びで暗殺拳使わせちゃって、悪かったなって……」

「――鋭一!」


 鋭一が言い終わらないうちに、葵は口を挟んだ。少し、語調が強まっている。


「たのしいよ」


 葵は言い切った。ベンチから足を浮かせ、ぷらぷらと揺らす。


「鋭一。わたしね。今……ほんとうに、たのしいんだよ」


 鋭一は教えてくれた。

 どこにも使い道のなかった暗殺拳を使える場を。今まで味わったことのなかった勝利の興奮を。涙が出るほど楽しい、強者との闘いを!


「鋭一は、凄いんだよ!」


 葵はその「凄さ」を力説した。「先に一発入れた方が言うことを聞く」という一色家の家庭内ルールを、鋭一はあっという間に攻略した。一色家では意見が食い違ったり、欲しいものがあったりする場合、全てこの方法で決めていた。


 さらに父が生前に主張していた「気配を消した葵を見つけられる男しか認めない」「葵の目潰しを避けられる男しか認めない」「葵に一撃入れられる男しか認めない」という、娘の恋人に求める三原則まで満たした。


 何もない葵の世界に現れた、驚くべき存在。そんな彼が――


「そんな鋭一が――つ、『付き合いたい』って……言ってくれるなんて」


 これはもう決定打だった。


 世界が完全に閉じてしまっていた葵にとってその存在は眩しかった。砂漠に水を求めるように、葵は鋭一を逃がすまいとついて回った。


「鋭一と出会ってから、ほんと、ほんとに、楽しいことばっかりで……だから」


 だから。

 ……だから。


「だから、わたしは……鋭一と一緒がいい」


 葵は言った。


「そうか。……そうか」


 鋭一は拳を握った。


 それが偶然であれ。ただの自分の都合であれ。鋭一との関係は、間違いなく葵を救っていたのだ。


 だから彼女は戦いの最中に泣いたし、試合の後には抱き着いてくる。そして鋭一が目潰しを避けたり、葵に勝っても、喜ぶのだ。それは葵を、怖がらないということだから。


「……葵」


 鋭一は横の葵を見て、笑った。

 葵はきっと、プラネットを続けてくれるだろう。一緒に戦い続けてくれるだろう。それが確信できた今。鋭一の中に、ある決意が生まれつつあった。


「勝とうな、今度の試合」

「……うん」


 葵は、はにかんだような笑みとともに頷いた。


「俺さ」

「?」


 鋭一はそこに、付け加えた。それは彼にとってとても大事な、宣言だ。


「もし勝てたらさ、葵に伝えたいことがあるんだ」

「伝えたい……こと」


「今は言えないんだ。次に勝てなきゃ、言う資格ないと思うから。だから……絶対勝ちたい」

「うん」


「勝ったら、言うから。覚えててくれるかな? ……俺、記憶力ないみたいだからさ」

「……ん」


 ベンチに横並びに座る二つの影。

 少女は隣の少年の手に、自らの手を重ねた。


 それは、少年の言葉に対する承諾を意味していた。

 眼下には陽の落ちた街が見える。そこで瞬く都会の光を眺めながら、同じように、少女は瞳の中の光を瞬かせていた。

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