青のスクルプトル
依田一馬
序幕 Prologue.
序幕 Prologue.
――またこの夢を見ているのか。
彼はその日、とある『景色』を眺めていた。
靄がかる視界の中、初めに感じたのは白んだ光。独特のにおいが鼻につく。――これは塗料の匂いだ。嗅覚から得る情報はかなりのものだ。
この匂いを嗅ぐたびに、彼は「またか」と濁った思考の片隅で考えてしまう。
少なくとも、『彼』はこの景色を夢だとはっきり認識する程度の余裕はあった。残念なことに意識はあっても身体の自由はまったくと言っていいほどきかないのだが。
強い光に目が慣れてくると、『彼』の足は自然と動き出す。驚くほど早足で、とある一か所を目指すのだ。
かつ、かつ。
響く足音はあたかも楔のようだ。時間という目に見えないものに確かな区切りをつけるための楔。
歩数にして六〇歩。六〇の楔が打ち込まれたとき、彼は絶対的な無音空間に放り出される。
瞳が仰いだその場所に『彼女』はいた。
真白な翼を背負い、両手を広げる様は祈りを捧げるための十字架を連想させる。細く伸びる『彼女』の両腕は、架空の空へと向けられていた。
ただ、密やかに。彼らの対話は、ここから始まる。
吐き出す吐息すらも耳に入らない。濁りゆく思考が『彼女』の前で爆ぜて消えてゆく。不思議な感覚だった。『彼女』を前にすると、余計なことは一切考えられなくなる。
それでもただひとつだけ、頭に浮かぶ言葉がある。
――なあ、お前は、世界の行く末を見たくはないか?
そこで必ず『彼』の目は覚める。
途端に襲いかかるのは現実だ。静謐な空間が夢の残滓を微かに漂わせるが、しかしそれもすぐに霧散してしまう。『彼』にとっての現実はとてつもなく脆弱で残酷だった。
否、だからこそ、目を覚まさなければならないのだ。
『彼』はゆっくりと起き上がると、椅子に無造作に掛けていた黒色の軍服を羽織る。
その瞬間、『彼』に名前がついた。
ロンドバルディア連合国・総帥。
彼が持つ赤と黒の双眸。それらが窓の外を見つめると、夜闇すらも怯え委縮してしまうようだった。明らかに異彩を放つその瞳は、夜闇のはるか向こう、微かに瞬く光を捉えて離さなかった。
***
夜闇に瞬く光により、『彼』はおろか、この場所で昼夜を過ごす者は一斉に目を覚ますこととなる。文句を言う者はただのひとりもいない。
あの光に、国の全てがかかっている。彼らの視界の先には、じっと巨大モニターを見つめる『彼』がいる。
「――敵の数は? 機種は特定できているのか」
『彼』の低い声が響き渡る。その表情は室内の仄暗さのせいで読み取ることはできない。だが、少しばかり長い黒髪の下に隠される件の瞳はきっと笑ってなどいない。それだけはこの場にいる誰もがすぐに理解できた。
眼前に展開されている巨大モニターには、荒野と化した景色と、くすんだ繭色の巨大戦闘機が映し出されている。戦闘機はどれも人間に近い形をしており、腕や脚、腰のあたりがやや細まった形をしている。
人形、とでも表現すればいいのだろうか。
それらはモニターに映っているだけでも相当量が悠然と待ち構えているように見受けられる。その不気味さといったらない。
『彼』の問いに、オペレーターである眼鏡をかけた男が返答する。
「数は……ええと。およそ五〇〇といったところでしょうか。機種はコクーン量産型。それだけです」
「ふん」
『彼』はオペレーターの返事を聞くや否や、さもやる気のなさそうな声を上げた。とはいえ、この場の主は『彼』だ。この男が指示を出さなければ、そしてそれに従わなければこの場を切り抜けることはできない。そう分かっているからこそ、誰も何も言わない。何も言わずとも、『彼』へ意識が集中するのだ。
『彼』はモニターをじっと睨めつけている。
そして後に結論を出した。張りつめた空気の中、『彼』は次の言葉を紡ぐ。
「こちらはエル・システム十隊分を出撃させろ」
オペレーターはその発言に明らかな動揺を見せた。思わず振り返り、『彼』にその真意を問い詰める。
「十隊、ですって? たったの三〇機で立ち向かうおつもりなのですか?」
「なに、心配は要らない。こちらはパンツァー・エイドも同時出撃させる。あいつがいれば間違いは起こらないだろう。それとも、」
『彼』が視線をオペレーターに向けた。「なにか不満でも」
鋭いナイフの切っ先が、彼の喉元に突き付けられたような危うさを孕んでいる。オペレーターはそれに臆したのか、身を縮め小さく謝罪の言葉を述べた。
その様子に『彼』は口の端を吊り上げる。
「そんな顔をするな。俺はお前を信頼しているんだ。この信頼を裏切るようなお前ではないだろう? そうだな、ギア・ローグナー」
「……仰せのままに。総帥」
『彼』は笑った。
この状況があたかも自分の掌中にある出来事であるかのように、自信に満ちた様子で。または、この状況が楽しくて仕方がない、といった様子で。
いずれにせよ、『彼』は戦いというものに異常なまでの執着を持っていた。
この瞬間、『彼』は別の名を冠することになる。
――『黒の王』。
人は、彼をこう呼ぶのだ。
『黒の王』はその威厳を以て勢いよく啖呵を切った。
「
そう言い残し、『彼』は去ってゆく。
世界の行く末を、己自身の目で確かめるために。
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