2話「芹沢先輩その1」

「よろしくね、山田さん」


 それは、在野ありのさんの失踪によって同居人を失った私が「やほーい、やほーい」と本能のリミッターを解除して、ふかふかのベッドの上でひとり部屋になったことの喜びを躰全体を使って表現していた最中の出来事でした。

 唐突に名前を呼ばれた私は「はて?」と首を傾げながらドアのほうを窺おうとして、ベッドから落っこちました。親友の石沢いしざわさんは例によって反省部屋にぶち込まれてしまっているため、私の部屋に来客があるとはまるで想定していなかったのです。完全に油断していました。間抜けな姿を晒してしまいました。


「大丈夫?」

 そんな風に、尻餅をついた私の顔を覗き込んできたのは、芹沢せりざわ先輩でした。芹沢先輩は、転校初日に校舎の案内をして下さった先輩で、漆黒の長髪が特徴的な美人さんです。

 しかも美人な上に優しくて、芹沢先輩は廊下ですれ違うたびに、花のような微笑を向けてくれて、私はそのたびに「ふへっ、ふひひ」と卑しいメス豚のような挨拶と共に会釈をして、小走りで逃走していたのですけども、今は自室ということもあって逃げ場がありません。

 心情的には、崖に追い込まれた犯人と同じです。目を瞑ると、迫るような波の響きと、船越英一郎の声さえ聞こえてくる気がします。


「……よろしく?」

 私は、数秒前の芹沢先輩のセリフを反復しました。何がよろしくなのでしょうか。私は再び小首を傾げて、そして芹沢先輩の足許にキャリーバックを発見しました。黒くてごつごつとした武骨なデザインです。人ひとりなら余裕で入りそうなその中には、いったい何が……? まさか在野さん……?



「今日から、わたしが山田さんのルームメイトだから」

「えええええええええ!?」

 断末魔にも等しい私の叫び声は、反省部屋の石沢さんの許にも届いたことでしょう。隣の部屋からは、本来の意味のほうの壁ドンが。


「ななななな、なんで」

 動揺します。まさしく追い詰められた犯人が如し、です。うっかりぼろを出して、自供してしまいそうになりますが、幸いにして心当たりはなかったので事なきを得ました。


「規則だから」

「でも、それにしたって、早くないですか。在野さんがいなくなってからまだ三日ですよね」

「でも、規則だから」

 どうやら芹沢先輩は、規則重んじる系女子のようで、まあ確かにメガネとか委員長とかが似合いそうな容姿をしています。きっと成績もいいのでしょう。人望もあるのでしょう。どうしてこんな、乙女の墓場に芹沢先輩がいるのか理解ができません。へるぷみー。

 こんなにも石沢さんを恋しく思ったことはありません。石沢さんがこの場にいたら間違いなく、先輩に突っかかっているでしょう。石沢さんは規則とかルールとか、そういうものを嫌う生物なのです。あ、でも石沢さんは物凄く馬鹿だから、芹沢さんに簡単に言い包められてしまうような……。


「とにかく今日からお世話になるね。わたし、どっちのベッドを使えばいいかな?」





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「そんなことがあったんですよ、石沢さん」

 夕食の席で、四日振りに解放された石沢さんに、芹沢先輩と相部屋になったことを報告しました。隣に座る石沢さんは「芹沢って誰?」と、ビーフシチューの入ったお皿に直接口をつけながら私を一瞥してきます。やっぱり石沢さんの前世は犬かもしれない、そう思いながら「三年生ですよ」と答えると「とりあえず殴っとく?」というお返事が。


「ん、ん?」

「舐められるわけにはいかないだろ?」

「あれ?」

 どうしてそういう結論に至ったのかわかりません。馬鹿なのでしょうか。いや、馬鹿なのでしょう。テレビに出演している犬のほうがまだ賢いかもしれません。


「最初は緊張で死にそうでしたけど、今はまあ慣れましたよ」

「こういうのはさ、最初が肝心なんだよ。犬と一緒。最初に一発がつんっとやって、どっちが上かを叩き込む必要があるんだよね」

 犬と一緒なのは、石沢さんの脳みそのサイズだと私は思いました。



「どっちが上かも何も、芹沢先輩のほうが年上ですし、それに先輩はとてもいい人ですよ?」

 聖峰女学院ここでの暮らしは、ルールさえ守っていれば基本的には快適です。もちろん、そのルールとやらが非常に厳しいので、大半の人間が不満を漏らしているのですけども、私からしてみればここでの暮らしは天国といっても過言ではなく、だってこうやって食堂に赴けば毎日のようにおいしいご飯を頂けますし、冷暖房も完備で、オマケに大きなお風呂つきなのです。数少ない不満点といえば、スナック菓子の入手が極めて困難なことと、家事――といっても掃除と洗濯ぐらい――は自分でこなす必要があるということぐらいです。

 その家事も、今は芹沢先輩が率先してこなしてくれるので、私はお姫様にでもなったような気分なのですよ、はい。


「あら、嬉しい」

 不意に、芹沢先輩が会話に割り込んできました。


「ここ、いいかな?」

 と私の向かいの席にご飯の載ったトレーを置いて、返事を待っています。


「どうぞ」

 そう答えた私と、

「ダメに決まってんだろ」

 と、ガンを飛ばす石沢さん。何が決まっているのでしょうか。今にも飛び掛かりそうな形相です。私が、どー、どー、と石沢さんを落ち着かせようとする傍らで、


「そうだ、キミたちにこれをあげるよ」

 芹沢さんが上着のポケットから取り出したのは、うまい棒でした。しかもめんたいこ味。この三日間、芹沢さんにしっかりと餌付けされていた私は「やほーい」とそれに飛びついて、早速咀嚼します。もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ、う――っ!


 なんだか喉が焼けるような、目がちかちかするような……私は隣の石沢さんの様子を窺います。石沢さんは吐血していました。大変です、救急車、救急車、と携帯電話を探しましたが、そんなものはここにはありません。

 咳き込みそうになったから口を手で抑えると、なんだか掌に生ぬるい感触が。掲げて確認すると、私の小さな手が、真っ赤に染まっていました。


「なんじゃこりゃあ」


 と言いたいところですけど、喉が麻痺してしまったのか声になりません。私は向かいの芹沢先輩に助けを求めるべく、先輩に視線を向けました。先輩は「大丈夫?」と、廊下ですれ違ったときに浮かべるような、可憐な微笑をその端正な顔に貼り付けています。

 おや? という既視感。そういえば前にもこんなことがあったような、なかったような……そうだ、思い出しました。以前、東京バナナを食べたときにも、こんな感じの症状に見舞われて――――

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