百人一首 第三十五首 春の歌
相田 渚
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける1
なんだかんだ、この道を歩くのも久方ぶりだ。
白い吐息を漏らしながら、貫之は以前この場所を訪れたのはいつだったか思い出そうとした。
しかし記憶を探るよりも前にほのかに梅の香りが鼻先をくすぐり、意識はそちらへと流れていく。
遠くから眺めているためよく見えないが、以前と変わらず、梅の香りとともに長谷寺はあるようだった。
貫之は度々この長谷寺に参詣していたが、今回は少しばかり期間が開いたため前回と同じ場所にどっしりと構えている長谷寺の姿を確認できて、ほっと胸をなでおろした。
このご時勢だ。
前回そこに存在していたものが次もあるなんて保証はどこにもない。
しかし、今回もどうにかご縁をいただけたみたいだな。
貫之は観音様に心のうちで感謝した。
このよろこびを感じたまま参詣したいのは山々だが、あと数刻で黄昏時だ。
黄昏時いや、逢魔時には魑魅魍魎が姿を現すという。まして日が暮れ、闇が広まるとそこは人のいるべき場所ではなくなる。
あたりが闇に染まらないうちに急がねばならないと、貫之はくるりと方向を変え、歩き出した。
寒さにふるりと身体を震わせながらたどり着いた先は、長谷寺に参詣する際に世話になっていた家だ。
長谷寺以上にこの家には長いこと訪れていなかったが、寂れた様子も、反対に豪奢になった様子もなく、数年前の貫之の記憶と違わずその家は建っていた。
やれやれ、帰って来たな、と貫之は懐かしさを抱いた。同時に、自身が不安や安堵の感情を抱かなかったことに気付く。
何故だろうか。
この家は、村に病が襲ってこようとも、神の雷が大地に降りかかろうと、何年経とうと変わらず存在しているものだと自然と思っていた。
彼女の存在が、そう思わせているのかも知れないな。
しゃんと背筋を伸ばし、気位が高く、冬の夜明けを思い起こす黒髪が美しい女。澄ました人なのに、ふとした瞬間に可愛らしい一面を見せる女。
脳内に思い浮かべながら彼女の名を呼ぶと、家の中から姿を現した。
彼女は貫之を見ると、はっと一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。
凛とした姿も、勝気そうな顔貌も変わっていないな、等と思いながら貫之は口を開いた。
「やぁ、久しぶり。以前と変わらず元気にしているようで何よりだ」
「…随分とご無沙汰ですこと。もう私の存在はあなたの記憶の片隅にもないものだと思っていましたわ」
貫之の汚れた旅装束を上から下までじっくりと眺めた彼女はツンと言い放った。
「貫之様のおっしゃる通り、このように確かに私は息災ですし、家も昔のままですよ」
ただあなたは変わられたみたいですけれど。
言外にそうチクリと刺される。
確かに昔は長谷寺に参詣する際は必ずといっていいほどこの女主人の家に泊まっていたし、ここ数回は長谷寺に参詣してもここを訪ねなかったのも事実だ。
しかし、ここで彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。
もう日も暮れている冬空の下に誰が長いこと居たいと思うだろうか。
それになんだか今夜は、この気位の高い彼女とともに月を眺めていたい。
そんなことをつらつらと考えていると、ふわりと風が貫之を撫ぜ、梅の香りを運んできた。
貫之は梅の花を手折り、穏やかな口調で歌を口ずさんだ。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
「…」
「君こそ、私のことを覚えていてくれたのかい。私には、君が以前と変わらない気持ちを持っているのかはわからない。わかるのは、君が健康であるということと、昔から親しんだこの場所でこうして梅の花が変わらず私を快く迎えてくれているということだけだ」
手折った梅の花を鼻に近づけて香りを楽しんだ貫之は、それを彼女に差し出した。
「芳しい梅の香りが昔と変わらないように、君の心も以前のままならきっと快く迎えてくれるだろうな」
独り言のようにそう呟くと、彼女はふ、とため息をつきて花を受け取った。
花の香りに眉を下げ一瞬微笑んだが、すぐにきりりとした瞳で貫之を見つめる。
「花だにも 同じ心に咲く物を 植ゑたる人の 心知らなん」
囁くように口ずさんだ彼女は頬を赤く染め、照れたように踵を返した。
あなたが手折った梅の花を植えた主人である私の心が変わらないから、梅の花は昔と変わらず咲いているのですよ。
そう歓迎の返歌をもらった貫之は彼女の後を追い、やっと家の中に足を踏み入れた。
貫之に抱く気持ちは梅の花の香りのように昔も今も変わっていないのだと、恥ずかしげに告げる彼女は、やはり可愛らしい人である。
昔と変わらず、少し不器用で愛らしい人に、昔と変わらない梅の花と家。
唯一つ、昔より彼女は随分と歌が上手くなっている。
今宵二人で眺める月は、より優美な風情が感じられそうだ。
貫之は頬を緩め、微笑んだ。
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