ルイーザ=レンフィールド 2

 レイナは、ルイーザが何を言っているのか理解できなかった。


「え、えっと――」


「駆け落ちよ、駆け落ち!? この空飛ぶことしか娯楽のない糞まみれの時代で、上流階級の天翼人が駆け落ちのためにフライデーに出るとか……その上決勝まで勝ち上がってくるとか……う~ん、燃えるじゃない!」


 堰を切ったように怒涛の勢いで喋りだすルイーザの真意をレイナは掴み取れなかった。


 か、駆け落ち?


 燃える?


「そ、そんなことのために――」

「馬鹿言わないでよ! 女の子は色恋沙汰が好きなのよ、いつだってね」


 ルイーザが冗談で言っているのか本気で言っているのかわからずシルヴィアとリリアンに助けを求めるが、二人は苦笑いを浮かべるだけで何も言ってくれない。


「って、いうか、ルイーザさん! 駆け落ちって、どうして!?」

「いや、あたしじゃねえぞ?」

「私たちもお話しするのは今日が初めてですし」


 噂の出所を確かめるために二人を睨むレイナだったが、シルヴィアもリリアンも本当に思い当たる節はない様子。

 レイナがフライデーに出場する理由はたった一つ。金でも名誉でも地位でもなく、堂々とイミナと結婚して、カータレットを出ていくためだ。

 それを別に隠しているつもりはないが、離したこともないトーナメントの向こう側の選手の耳にまで入っているとは思わなかった。


「あら? 選手たちの間ではもう常識よ。最速の翼――カータレットのご令嬢は、駆け落ちするために優勝目指してるって」

「なんで! そんなに! 広まってるのよ!」

「別にあたしらだって、誰かと話した覚えはないからな」

「風の噂とか、あるいはイミナさんたちが話したのかもしれませんね」


 リリアンの言葉に、レイナもハッと思い至る。

 結婚こそしていないが、レイナはイミナと頻繁に顔を合わせている――というかデートを重ねている。大地人・天翼人にかかわらず、その姿を目にしたことのある人間は少なくないはずだ。

 いかにカータレットの令嬢とはいえども、単に生活しているだけならその顔を覚えている人は少ないだろうが、レイナは年に一回の浮島最大の娯楽レースの出場選手だ。通りを歩けば誰もが振り返るとまではいかなくとも、レイナの顔に見覚えのある人は少なくないだろう。

 そしてそんなレイナがいつも同じ男を連れて歩いている。イミナはもちろん、シルヴィアやリリアン、その他の友人たち等、イミナとの関係を話す機会は少なくない。

 それを耳にした人がいても、あるいは誰かが誰かに話したことが伝言ゲームのように広まったとしても、不思議ではないのかもしれない。


「だからね、みんな密かに応援してたのよ」


 そんな恥ずかしいやら恨めしいやらの感情は、ルイーザの一言で吹き飛んだ。


「応援……ですか?」

「敵なのに?」


 レイナと同じ疑問を抱いたのだろう。リリアンとシルヴィアが続けて口に出した。


「私たちは、貴族――天翼人だからね。幸か不幸か、なんて言ったら怒られちゃうんだろうけどさ、それでも幸か不幸か、生活するだけなら、生きていくだけなら、すごく楽に生きていける。フライデーに出たところでさ、私たちには優勝に拘る理由がないのよ」

「不幸、ですか?」


 翼があることを羨む大地人は居ても、翼がないからといって嘆く大地人はあまりいない。だが翼があることを不満に思う天翼人はまずいないだろう。翼がなくてできないことはあっても翼があって困ることはないからだ。


 それを、不幸?


「私たちは生まれた時からある程度のものを与えられてしまっている。だから、本当に欲しいと思えない。渇望できない。飢えを知らない。それは不幸じゃないかしら」


 ルイーザの言葉はレイナにはひどく傲慢に聞こえた。

 持っていることが――空を飛べることが当然の人間が、翼を持たない大地人の何を理解できるのか。彼らをしってなお自分が不幸だというのは、あまりに傲慢ではないか。


 それは、傲慢だ。否定のしようがない。


 でも妙に腑に落ちてしまった自分もまた、傲慢であると思い知らされる。


「だから、眩しいのよ」

「眩しい?」

「うん。眩しい。あなたみたいに、真っ直ぐな情熱を持てる人が、いるんだって。同じように翼を持って、ましてや最速の一族に生まれて、その全てを投げだせるだけの熱を持っている人がいるんだってことがね。すごく眩しいのよ」


 グラスに残った酒を、ルイーザが流し込む。

 自分にない、夢を、情熱を、渇望を、全部飲み込んでしまうかのように、ルイーザは酒を呷った。


「ま、だからといって」


 刹那。

 ピリッと。

 空気が張りつめた。

 ともすれば切れてしまうような張り詰めた蜘蛛の糸が空間を裂いたかのように、確かな緊張が走った。


「手を抜く気はないんだけどね?」


 ルイーザのその表情は、笑顔だった。

 確かに笑顔と呼べる表情ではあったが、酔い醒ましにはあまりに強烈な衝撃を受けた。


「リリアンさん、それにシルヴィアさんも。今日の試合、見事だったよ。圧縮空気弾はただでさえ難しい技術なのに、それをあんなに長距離から撃てる人はそうそういない。シルヴィアさんの接触慣性制御も見事だった。接触から制御までのタイムラグもほとんど感じさせないレベルだったね」


 リリアンがシュネールの三人を撃ち落とした技術――圧縮空気弾の生成は今日の試合の実況でも解説されただろうが、シルヴィアの慣性制御は傍目には気づかれにくい技術だ。それを初見で、しかもあの一瞬の攻防だけで見抜いたことはさすがと言うべきだろう。


「でもどうして準決勝、、、で使ってしまったんだい?」


 リリアンの圧縮空気弾は、無警戒の相手だからこそ意味のある技だ。本来ゴム弾のような物体を浮かべ移動させる翼浮力の力を、空気という形ないものに利用することは簡単ではない。まして人体にダメージを与えるほどの威力の弾丸に仕上げるには、並大抵の技術では作れない。

 そして空気弾を作れたとしても、その強度は恐ろしく弱い。その上連射性能も低い。リリアンは卓越した技術と妄執のような努力で、三人の選手を同時に撃ち落とせる技を作り上げたが、連続で撃ちだすことはまず不可能だ。

 空気弾を最大限に活かせる戦術は、不可視の弾丸による奇襲。だがそれも空気弾生成のための翼浮力を感知されてしまえば、防ぐことは難しくない。翼浮力で自分を中心とした反重力を不規則に発生させれば、圧縮空気弾はバランスを崩して崩壊する。

 一方でシルヴィアの接触慣性制御もまた、対策は難しくない。慣性制御は、普通空中に浮かせた物体を移動させるのに扱われる技術だ。シルヴィアの慣性制御は練度が高い。特に対象と接触している間は無類の干渉力を誇る。簡単に言ってしまえば常時無敵状態というわけだ。

 とはいえ干渉対象を選択するのはシルヴィア自身だ。シルヴィアが把握しきれないほどの数で同時攻撃を行えば、シルヴィアには対処できない。物量で圧倒できないとしても、接触の瞬間に慣性干渉を行うこの技術は、酷く集中力を使う。そう長く維持できるものではない。

 リリアンにしろシルヴィアにしろ、奥の手は一撃必殺の初見殺しではあるが、一度見れば対処できない技術ではないのである。


「決まってんだろ? それが一番、勝率が高いからだ」


 でもそんなことはレイナにだってわかっているし、シルヴィアがわからないはずがない。それでもなお使う決断をしたシルヴィアを、レイナは全く疑っていなかった。


「リリアンの空気弾にしろあたしの慣性制御にしろ、あんた相手には一撃必殺になり得ない。そうだろう? チャンピオン」

「買い被りすぎさ」

「買い被りなもんか。実際、あんたが話してくれたあたしらの性質、それは今日耳にしたわけじゃなくて、もともと知っていた情報だろう? どうせ決勝まで持ち込んだって必勝の策にはなり得ないんだ。だったら準決を確実に勝つために使う。合理的だろ?」


 シルヴィアもリリアンも、優秀なフライキャリア選手だとレイナは思う。だが優秀な競技選手ではあっても、万夫不当の豪傑ではない。シルヴィアの慣性制御もリリアンの空気弾も、彼らが編み出したオリジナルの奥義などではなく、あるいは秘匿されている技術というわけでもなく、あくまでスピードが重視されるフライキャリアの選手としてはマイナーな能力であるというだけだ。


 つまり、知っている人なら知っている技なのだ。


 そしてこの二年間、あらゆるチームが知恵を絞った戦略のその全てを、空の向こうに置き去りにしてきたルイーザ=レンフィールドが、その程度の技術を知らないわけがないのである。


「……それじゃあ、期待してもいいんだね?」


 妖艶な笑み。

 ルイーザのその背筋を凍らせるような微笑みに、レイナは震えた。

 でもレイナ自身だからこそわかる。

 この震えは、武者震いだ。


「覚悟しなさい。だって一番私が、一番速いんだから」


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