さあ、新しい顔だよ

 その日も伊和奈は帰ってこなかった。

 伊和奈がまえもって用意していた食料が、とうとう底をついた。


〔わたしが帰ってこない事態が起きたら、備えていた緊急用の食料を食べて繋いで。調理は簡単だから、作蔵でも作れる。ただし、節約はしてね。夏と冬は光熱費がかさむは、知っている筈だよね〕


 作蔵は、伊和奈の置き手紙に目を通していた。

 緊急。

 少々大袈裟にとらえられるが、納得できる部分があることは、否定できない。

 作蔵は掃除と洗濯は出来るが、炊事が駄目よだめだめだった。事例を挙げると、野外炊事の定番品目カレーだ。皮剥き食材は木っ端微塵にして炒めた具材を炭化させると煮込むに欠かせない水の分量を鍋になみなみにした。結果、完成品を食した伊和奈は当然気を失った。

 伊和奈は作蔵に料理禁止令を命じた。以来、作蔵が本格的な料理をすることはなかった。


〔緊急用分〕


 作蔵は、台所の床下収納庫からそんな札が掛かって紐で綴じられる袋を抜き出した。

 閉め口を開き、右手を突っ込ませてビニール包装された食品を掴んだ。


〔あっというまに鶏さんラーメン〕


 商品名からして、インスタントであることは明らかだ。しかし、ただの調理法はつまらないと、作蔵は余計なことを考えた。

 応用。

 つまり、ひとつ手を加えることで店で味わうのと同じ出来映えになると、期待した。

 調理器具は片手鍋と箸、具材として冷蔵庫に残っていた生卵1個を用意した。までは、よかった。

 担々麺。

 作蔵の思考回路は、完全に創作と刷り変わっていた。

 ガス焜炉が置かれる台の右に棚があり、砂糖や塩などの調味料が詰まっている箱、瓶が並んでいた。作蔵は迷わず瓶詰めの鷹の爪と一味唐辛子を手に取った。

 野菜。

 チンゲン菜の代用品として、伊和奈が冷凍保存させたほうれん草を選ぶ。

 調理。

 作蔵は、熱した片手鍋にサラダ油を茶碗1杯分注ぎ入れ、鷹の爪を原形のままで20個投入して炒めるを通り越して燃やした。

 目が痛い。それでも、作蔵は中断をしなかった。焦げた鍋、立ち上る煙に怖じけることなく色付けにと、一味唐辛子の瓶を空にさせた。

 と、いうのが下ごしらえの過程だ。

 あとは水を注ぎ、沸騰したら麺を茹でること3分。仕上げは丼に入れて凍ったままのほうれん草を投入させ、生卵を添えた。


 完食後、作蔵は倒れた。


 伊和奈は、その日も帰らなかったーー。



 ***



 次の日、作蔵は昼になっても起きなかった。目を覚ましたのは、自室であった。しかも、しっかりと布団の中にはいっていた。

 作蔵はどうやって自室に向かったのかと、考え込んだ。


 ーー作蔵さん、作蔵さん。


 枕元で声がした。間違っても伊和奈は可愛らしく言わない。そんな声だった。


「ああ、穂乃花か。すまない」

「びっくりしました。呻き声がする、そしたら作蔵さんが踞って苦しそうにしていた」


 作蔵は、ふと、思った。

 異変に気づいた穂乃花が自分を部屋まで運んだのかと、思った。


「大変、大変。と、わたしはみんなに貼ってあるお札をはがして作蔵さんのことを一生懸命言ったの。そしたら、みんながんばって作蔵さんをお部屋まで連れていってくれた。お布団を敷いて、寝んねさせてをみんなと一緒にしたよ」

 身振り、手振りでことの経緯を説明する穂乃花に作蔵の顔は笑っていたが、心の奥はざわめいていた。そう、穂乃花が作蔵を助けたい一心でとった行動にだった。


「あのう、穂乃花さん。あいつらは、そのあとどうしているのかな」

 作蔵は、恐る恐る穂乃花に訊ねた。


「みんな、嬉しそうにしていたよ。ひとりのこは『あなたには作蔵のお世話をまかせる。大丈夫だったら、一緒に遊ぼう』なんて、声をかけてくれたよ」


 作蔵はがばりと、布団から起き上がると襖へと駆け出し、勢いよく開いて部屋をを飛び出した。


「作蔵さん。元気になったからって、あんまり無理をしないで」

 穂乃花は開く襖の間から顔をのぞかせて、廊下を走る作蔵の背中を見ながら言った。


 ***


 えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。作蔵は、焦っていた。つい、きのうの出来事がまだ記憶に鮮明だと、家のありとあらゆるところを確認していた。


「たのむ、家の中にいてくれ」

 自然と、ひとりごとをついてしまう。

 あいつらがかくれんぼに夢中のあまりに、目に触れられない場所を探してとんでもないところに行かれたらひとたまりもない。


 四畳半にて。

「うきは。さあ、お部屋に戻ろう」

 茶箪笥の閉まる開き戸に着物の裾が挟まれていた。作蔵は、両手でうきはと呼んだ市松人形を掴み、脇に抱えた。当然、必死の抵抗をするうきは。

 作蔵の腕に、くっきりと米粒のような歯形が付いていた。


 天井裏。

 何でこんなところを選んだのかはさっぱりだ。作蔵は、手拭いで口を覆い被せて懐中電灯を照らしながらさ迷った。

「おうい、風里ふうり。頼むからお部屋に帰ろうよ」

 やっと見つけた市松人形の名を呼ぶ作蔵の全身は、埃まみれ。それでもちょこまかと動くをされては追いかけて、しまいには天井板をぶち破った。


 3号、4号、5号……。

 名前があるのに省略された呼び方の市松人形を、作蔵は何とか10号まで取り押さえては札を貼るをした。


 残りは、さゆるという名の市松人形。

 作蔵は、きわめて不愉快そうな顔つきをしていた。

 さゆるは市松人形達を仕切る役目を担っていた。ひとり、いや、1体でも反発的な態度を示せば村八分を命じる。一方、伊和奈にはぶりぶり、ころころ。言い換えれば、私はか弱いの。と、いう一面を見せていた。


 二枚舌。

 それこそがさゆるの本性だと、作蔵は知っていた。どんなに伊和奈へ事実を説明しても虚言でしかないと、伊和奈は取り合わなかった。


 ーー作蔵、さゆるが悪さをしている証拠が何処にあるの。


 何時だか、さゆるをめぐって伊和奈と口論した。結果的に、作蔵がひいた。


 思い出すだけでも怒りを膨らませる。それだけ、さゆるはたちがわるい人物。いや、人形。

 作蔵は指の関節を鳴らして、さらに両肩の関節を回した。


「何処にいる、さゆる。さっさと姿をあらわさなければ、こっちも本気で容赦なしと告げる。たとえ、伊和奈がなにをなんと言ってもだ」


 ーーあっかんべー。伊和奈は、わたしをものすごく『よしよし』と、かわいがってくれてるのよ。それに、まともなごはんがつくれない作蔵のことを伊和奈はこまった、こまったと、言ってたもん。


 作蔵の目はつり上がっていた。今、聴いたのはさゆるの挑発だろう。一見すると冷静さを失っている作蔵だが、心の奥底はそうではなかった。


「気付けよ、お人形さん」

 作蔵はにやりと、歯を見せる。そしてすかさず右の膝を腰の位置まであげて、左の脚を軸にして全身を時計回りにさせた。


 作蔵の右足の爪先に、泣き顔をしているさゆるがいたーー。


 ***


〔ごめんなさいをいうまでうごくことはむり〕


 部屋の棚に他の市松人形と飾られていたさゆるの額には、そんな札が貼られていた。


「穂乃花、相手にするなよ」

 作蔵は、穂乃花を腕に抱えていた。


「作蔵さんはさゆるちゃんと仲良しになりたいと思っていないのね」と、不安げにいう穂乃花に、作蔵は「そういう問題ではない」と、眉を吊り上げた。


「さゆるちゃん、さびしんぼうなだけかもしれないよ。さびしんぼうだから、あまえかたを間違っていた。と、いうのはだめなのかな。作蔵さん」

「穂乃花、たとえそうだとしてもやっていいことやったらいけないことを、ちゃんとしなければならないのだ。教えてあげる相手を受け入れないは、人の象で生きるものの中では、よくない結果ばかりがほとんどなのだ」

 作蔵は、穂乃花を部屋の床にゆっくりとおろすと、そっと頭を撫でた。


「作蔵さん、あのね」と、穂乃花は部屋を出ようとする作蔵を呼び止めた。


「すまない、穂乃花。すこし、やすませてくれ」

 作蔵は穂乃花に振り返ることなく、部屋をあとにした。


 その日も、伊和奈は帰ってこなかったーー。

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