彼女が笑う

因口ゆうき

第1話

 晴れ間の無い夏の午後だった。空を見上げた。それは突然そこにあった。

 

 巨大な黒い板状の物体だった。黒髪のように艶やかな表面には少女的な瞳が一つだけ明いていた。明らかに雲を突き抜けるほどの巨体でありながら、それは黒く澱んだ濡雲に対して肌を触れさせるような不潔を許さず、かといって雲を引き裂くような野蛮も行わなかった。当たり前のように空間の上で雲よりも優先的に存在し、見るものの遠近感など狂わせて放って置いた。空の高みにあると同時にまるで目の前にあるようにも感じられた。それは僕を見た。そして三日月のよ

うな目で笑った。


 それの出現による最初の混乱が収まるまでに、それほど長い時間はかからなかった。それは無害であり無為だった。何をするでもなくただまばたきを繰り返した。まるで退屈な少女のようだ、テレビに映る誰かがそう言った。以降人々はそれを「彼女」と呼ぶようになった。


僕には彼女が退屈だとは思えなかった。

僕の目には彼女が常に笑っているように見えた。


 科学者やそれに類する人々は彼女の正体を求めた。あらゆる手段が講じられた。その全てが無駄に終わった。機械的な観測装置は一貫して彼女の存在を否定した。彼女は航空機のレーダーにも映らなかった。その為上空からの接近は肉眼を頼りに行われた。だが高度を上げるに従いパイロット達は彼女の存在を見失い始めた。高度二万二千メートルを超えた時点で全てのパイロットの視界から彼女は消えていた。彼女の観測は下から仰ぎ見ることによってのみ可能だった。彼女は全ての人間が同時に共有する幻覚なのだと判断が下された。


 それは間違いだった。彼女は存在していた。彼女は無害でも無為でもなかった。


 彼女の出現からの二ヶ月が経ったころ人間の身体に変異が起き始めた。個人差こそあれ変異はおおよそ以下の点で全ての人間に共通していた。肩幅や上下肢長を含めた体格の変化、体毛と虹彩の変色、左右側頭部および尾てい骨付近での肉腫の発生と骨格の変形、ただし一部の人間では肉腫の発生と骨格の変形は左右肩甲骨付近に見られた。変異は一切の身体的苦痛を伴わずとてもゆっくりと進められた。人々は長く自分達の身に起きている異変に気づかなかった。そして気付いた後も彼らの多くがそれを隠し立てた。その為人間の身体の変異が明言され認められたのは、彼女の出現から六ヵ月後のことだった。変異は彼女の存在と結びつけて考えられた。彼女は人類共通の敵となり、全ての憎悪の向かう的となった。多くの呪われるべき名で彼女は呼ばれた。遍く全ての人間から向けられる罵声と呪いの、その遥か高みで、彼女は平然とまばたきを繰り返した。遺伝子をそっちのけに人間の身体は変異を続けた。


 彼女の存在に関する無益な研究が続けられる一方で、人々は手っ取り早く外科手術によって肉腫を取り除く事を試みた。だが変異した人間の身体にあって術後二十四時間以内に再生しない肉種は存在しなかった。民間療法を含むあらゆる治療が試されたが、どれ一つとして効果を見せなかった。そもそもこの変異を病気の類と考えることが正しいのかどうかさえ、誰にも分からなかった。少しして彼女に対する爆撃が開始された。パイロットが彼女を視認することの出来る限度まで戦闘機で接近し、手動操作の起爆装置を取り付けたミサイルを目測で爆破させるという手段がとられた。だがミサイルはその爆煙によって彼女の姿を隠すことさえ出来なかった。


 僕はテレビ画面越しに彼女を見詰めた。白い雲を描きながら戦闘機が飛んでいた。笑っている、そう呟く僕に、母は濃ゆい緑の瞳を向けた。甘く息を吐いた。首を横に振りながらとても小さな声で何かを言った。聞き取ることは出来なかった。変異は僕の身にも起き始めていた。僕は右手で背中を掻き、その指先を眺めた。


彼女は僕だけに笑みを見せ続けた。


 更に数ヶ月が経った。研究や爆撃はもうほとんど行われなくなっていた。


 やがて人々は自分達の身体に起こる変異に明確な方向性があることに気付きはじめた。お互いに目配せを交わし、無言のうちに頷き合い、誰からとなく笑みを浮かべた。

我々はこの変異を受け入れる。口々に彼らは言った。変異の結果人間の肉体は九歳から十七歳程度にまで若返っていた。そして以降はどのような老化の徴候も見られなくなっていた。尾てい骨の肉腫は変形した骨格と供に尻尾として形を整え、艶やかな体毛にその表面を覆われた。側頭部には軟骨が盛り上がり、それは最終的に多様な獣の耳を形作った。また一部の人間の背中には肩甲骨の変形に伴い巨大な翼や翅が形作られた。もちろん人間の身体にあってそれらは何の役にも立たなかった。獣の耳に至ってはその下に耳孔さえ開いていなかった。だが変異後の人間は誰もが皆、男女の別も無く、輝くほど可愛く美しかった。無意味な獣の部位は極彩色の髪や瞳との完璧な調和の上で、その幼い容姿の可愛さと美しさを完成させるためだけに存在していた。暗黙の深い悦びと供に人々は自らの容貌を受け入れた。受け入れられた変異は進化と呼ばれた。

 

 変異と共に、人々は彼女の存在をも受け入れた。


だが彼らに彼女は笑わなかった。


 彼女が笑みを見せるのは、地球上で僕一人だけだった。


 在りて在るものとして彼女を受け入れ、今後一切の攻撃と研究を放棄する。世界的にそのような合意が為された。彼女が現れてからちょうど一年が経った日のことだった。同じように晴れ間の無い夏の午後だった。僕ははじめて彼女を見上げた日のことを思い返し、ぼんやりと自分の手を眺めた。

どこかで祝祭の音楽が聞こえていた。

「これがどのような意味を持つのか我々に知る術はありません」テレビの中で演説を行う少女が言った。「しかし我々は受け入れなければならないのです、受け入れた上で新しく前に進むのです、決して後ろを振り返ってはなりません、もうそこには戻れないのです、供に新しい一歩を踏み出しましょう、変化したのは皆同じです、今こそ手を取り合う時なのです、我々は進化しました、今ならそれが出来るはずです」そのように少女はスピーチを終えた。そして蝶の翅を広げた。それは透き通る薄い紫だった。観衆の拍手は空気を塗りつぶした。翅を開いたまま少女は壇上から手を振った。指先は甘い光のように白く艶やかだった。澄んだ銀髪は温い風に揺れていた。かつて少女の肌は厚く化粧に覆われていた。髪はべたべたと黒く染め上げられ、皺に埋もれる瞳は全ての意味で小さく凡庸だった。銀髪の少女は壇上を去った。大きく開いたフリルのドレスの背中から、蝶の翅は紫にきらめく燐粉を撒き散らした。


 僕は背中を掻いた。十二歳程度の少女となった母がテレビのチャンネルを変えた。母の頭には黒い猫の耳が生えていた。緑色の瞳は僕を避けた。テレビでは食器用洗剤のマーシャルが放送されていた。白い翼のある少年と少女がシンクに並んで食器を洗っていった。僕は背中を掻き続けた。ぱらぱらと音を立てて鱗が落ちた。滲み出した粘液で指先がべた付いた。もう一度その手を眺めた。灰色の鱗に覆われた歪な球体から、極端に長さの違う四本の指が突き出していた。それはどこか蝸牛の触覚に似ていた。丸く膨らんだ指先の突起に背中の鱗がこびり付いていた。澱み腐った水のような匂いがした。もういやだ、どうしてお前だけ、母がそう呟くのを聞いた。僕は自分の部屋へ戻りベッドに寝転がった。


 部屋は悪臭に満ちていた。僕自身の臭いだった。粘液の染み付いた布団は濃ゆく黄ばみ、紙のように硬く乾燥していた。目を閉じて眠ろうとした。顔面の中央に大きく突起した目には目蓋は無かった。半透明の粘膜がその代わりを果たした。視界は僅かに白濁した。眠ることは出来なかった。閉じた窓の向こうから遠く鮮やかに祝祭の音楽が聞こえていた。しかし我々は受け入れなければならないのです、受け入れた上で新しく前に進むのです、銀髪の少女のスピーチを思い返し僕は少しだけ笑った。笑うのはとても久しぶりだった。喉の奥で重い液体を掻き混ぜるような音が鳴った。


 しばらくして母が部屋に来た。僕の食事を載せたトレイを持っていた。ベッドの傍に立ち尽くし僕を見詰めた。何度かの呼吸とまばたきの後、母は不意に身体を折り曲げて勢い良く嘔吐した。僕は眠ったふりを続けた。ごめんなさい、嘔吐の合間に母は言った。食事はトレイごと床に叩きつけられた。半分以上が反吐に塗れた。母は部屋を飛び出していった。短いスカートの下で黒い尻尾が揺れていた。閉じ切られたドアの外で少女の泣く声が聞こえた。僕はベッドから這い出し床の上の物を食べた。甘く苦い味がした。肥大化し垂れ下がった唇は咀嚼の度にぺちゃくちゃと音を立てた。涙を流すことも出来なくなっていた。死のうとしてもこの身体では何処をどうすれば死ねるのか分からなかった。立ち上がり僕は窓を開けた。生ぬるい風と共に音楽が流れ込んだ。祝祭の音楽は徐々に大きくなりつつあった。


 音楽の鳴る方へ、家の前の道路を、兎の耳の少女らが、歩道の幅いっぱいに手を繋いで歩いていた。白い耳の少女が歌い始めた。


 黒ずんだ空の上から彼女は僕だけに目を向けていた。楽しそうに、僕を見て笑っていた。


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