02 空転トルク
中途半端になってしまった学校探検の後、カイリとスバルさんの家に戻って、おれは部屋にこもった。ベッドに寝転んで、参考書に線を引いたり、気晴らしに本を読んだりする。
いきなり眠ってしまうことを睡眠発作と呼ぶらしい。おれの場合、発作は連続して起こりやすい。今日じゅうにまた倒れるかもしれないから、外に出るのはやめた。
軽い頭痛がしている。発作が起こるたび、無意識下で息を止めている時間があるようで、目が覚めてからも、ちょっとした酸欠状態がしばらく続く。
カイリとハルタは、釣りに出掛けている。昨日フェリーから降り立った波止場の浮き桟橋で釣り糸を垂れたら、エサをまいてやるだけで、簡単にアジが釣れるらしい。ついでだから泳いでくると、ハルタが張り切っていた。
二人きりで海、か。カイリとハルタ、楽しんでくるんだろうな。悔しいけれど、今日は仕方がない。海のそばで睡眠発作が起こったらと想像すると、怖い。泳いでいるときだったら最悪だ。
いや、意識がないときに溺れ死ぬなら、苦しくも怖くもないのかな? だったら、案外いいのか。でも、水死体って悲惨だよな。
死というもののイメージをネットで検索したことがある。死にたいわけでも死体に興味があるわけでもなかったけれど、自分が死んだらどうなるんだろうと、唐突に気になった。
きれいな死に方ってないんだな、と感じた。首を吊ったら、目玉や舌が飛び出すし、腹の中のものが下に垂れ流しになる。手首を切るときは、血が固まらないように湯船につかる必要があるから、死体はふやけてぶよぶよになる。
列車に飛び込んだら、百パーセント、バラバラ死体。ニュースで出てくる、頭や全身を「強く打って死亡」というのは、原形をとどめないグチャグチャな状態という意味らしい。屋上から飛び降りるのも、体はメチャクチャに壊れるだろう。
睡眠薬は、顔も体もパンパンに腫れたようになるらしい。毒薬はどう考えても苦しくて、暴れまくった死にざまは決してきれいじゃないはずだ。
「このままダラダラ生きてくのかな、おれ」
生きるのがイヤなんじゃなくて、ダラダラなのがイヤだ。細く長く退屈な人生を歩んでいくより、叶えたい夢に燃えて派手に燃え尽きる人生のほうがいい。
ハルタは、おれの憧れる派手な人生を送ることになるかもしれない。レーサーって、死と隣り合わせの生き方だから。
母親は最初、ハルタがカート教室に通うことに断固として反対した。レーサーになんかなっちゃいけないと、弱々しく泣きながらハルタに訴えた。おれたちがうるさいときには、もっとうるさい声で怒鳴って叱り飛ばすような母親なのに、その日の泣き方は全然違った。
レーサーが背負うリスクは、猛スピードで走るマシンでのクラッシュだけじゃない。レースの間、レーサーの心拍数は跳ね上がる。F1レーサーの場合、平均して、一分間に二百以上になるらしい。つねに全力疾走しているような心拍数だ。
心拍数が極端に高まった心臓に、強烈な重力が掛かる。それに、レーサーは耐火スーツを着ているから、レース中の体温は上がりっぱなしになって、すごい量の汗をかく。水分補給もできない。血液がドロドロになって、血圧が急上昇する。
つまり、レース中のレーサーは、いつ心臓が止まってもおかしくない危険なコンディションにある。しかも、一瞬でも気を抜いたらクラッシュするデスマッチ。怖い。おれは、そんなマシンに乗ることなんてできない。そんな怖いマシンは愛せない。
だけど、ハルタはやるんだ。母親の反対に正面からぶつかって、何が何でもレーサーになってやると宣言した。
「レーサーになって、世界チャンピオンになってやる。伝説って呼ばれるくらい勝ってやる。かあちゃんに世界旅行をプレゼントしてやる。だから、おれを信じろ!」
毎日毎日、何度も何度も、ハルタは母親を説得した。飽きっぽいハルタが一ヶ月以上も頑張った。母親はついに折れて、ハルタがカート教室に通うことを許した。
あれから四年経った。ハルタは月に二回、サーキットに行っている。そのくせ、毎日サーキットに出没する金持ちの子よりも速い。年齢別の大会でも、何度か優勝した。うらやましいやつだ。おれなんか、部活のバスケでは県大会に進んだこともない。
ハルタの運動能力や動体視力みたいに飛び抜けたものを、おれは持っていない。少し人より器用に勉強できて、優等生らしい振る舞いを知っているだけ。
「つまんないやつ。前からわかってたけど」
おれは参考書を枕の上に投げ出した。
島での様子を知らせてほしいと、両親からも田宮先生からも言われている。おれとハルタで共有するようにと、ケータイを一台、契約して持たされた。でも、ここはケータイの電波が届いていない。連絡するには、スバルさんの固定電話かパソコンを借りるしかない。
また睡眠発作が起きましたなんて、報告したくない。大丈夫ですと嘘をついても、きっとハルタが暴露してしまう。こっちから連絡しなければしないで、そのうち両親や田宮先生から電話がかかってくるんだろう。
面倒くさい。
疲れ果てている。全部イヤになる瞬間が、発作みたいにやって来る。衝動的に爪と指の間に工具を突き込んだことが、一度だけある。
ふと、表からクルマの音が聞こえた。スバルさんが帰ってきたらしい。
壁に掛けられた時計を見ると、そろそろ午後五時だ。まだ外は十分に明るい。日本でも西の外れにある龍ノ里島は、日が暮れるのが遅い。
ただいまー、というスバルさんの声がして、返事したほうがいいのかなと思っているうちに、足音が階段を上ってきた。おれはベッドの上で体を起こした。
開けっ放しのドアをコツコツとノックしてから、スバルさんは部屋に顔をのぞかせた。
「ただいま。やっぱりユリトくんひとりだったか」
「おかえりなさい。カイリとハルタは釣りに行ってます。ぼくだけが家にいるって、靴でわかりました?」
「うん。どうした? 何かあった? 体調が悪い?」
おれは一瞬、正直に言うべきかどうか迷った。スバルさんはおれの体調のこと、知っているんだろうか?
「スバルさん、田宮先生から、ぼくの体調について聞いてますか?」
言葉を選ぶような間があった。スバルさんは真顔になって口を開く。
「睡眠発作を抱えてるという問題のこと?」
「ご存じなんですね。カイリは知らなかったみたいだけど」
「デリケートな問題だと思って、教えておかなかったからね。もしかして、発作が起こってしまった?」
「はい。龍ノ原小中学校を見学に行ったときに、急に。いつも、きっかけや前触れもなく起こるんですよね。ハルタたちにフォローしてもらえるタイミングでよかったです」
おれは笑顔で嘘をついている。フォローなんて、されたくなかった。カイリに睡眠発作のことを知られたくなかった。ハルタに借りを作りたくなかった。
部屋に入ってきたスバルさんは、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「ぼくと田宮先輩の思惑は、外れちゃったな」
「え? 思惑って何ですか?」
「龍ノ里島の自然の中にいだかれたら、ユリトくんの睡眠障害が治るんじゃないかって、楽観的なことを考えていたんだ。田宮先輩も、生き方に悩んだときにこの島に来て、元気になって帰っていったから」
「田宮先生が、生き方に悩んでいたんですか? それ、いつのことですか?」
「学生時代だよ。ぼくが大学三年生で、田宮先輩が大学院の一年目だったころだ。田宮先輩は、本当は研究の道に進みたかった。でも、そのためにはお金も時間も掛かる。田宮先輩のご実家は当時、苦しい状態だったらしくて、早く就職するよう言われていた」
大学院時代に教師になるかどうか悩んだという話は、田宮先生からチラッと聞いたことがある。笑い話みたいに軽い口調だった。でも、研究者か教師か、一生を左右する大きな分かれ道だ。笑い話程度の悩みじゃなかったはずだ。
「田宮先生は、どうして龍ノ里島に来たんですか? スバルさんが誘ったんですか?」
「夏休みに実家に帰りたくないと言っていた田宮先輩に、それじゃうちに来ますかって声を掛けてみたんだ。半分冗談だったんだけど、田宮先輩は本当に付いてきた」
「スバルさんのご実家、龍ノ里島なんですか?」
「いや、ぼくの実家はこの隣の島なんだけどね。せっかくだから、もっといなかに行こうって話になって、龍ノ里島の親戚の家に、田宮先輩と二人で転がり込んだ。楽しかったなあ。朝から晩まで、小学生に戻ったみたいに、海でも山でも遊んで回ったんだよ」
スバルさんは、遠い目をして微笑んでいる。
二十歳を過ぎた大人の男ふたりが遊んで回る姿なんて、うまく想像できない。例えば、おれとハルタの十年後? 無理だ。思い描こうとしても、イメージは真っ白にかすんでしまう。
「田宮先生は龍ノ里島で過ごして元気になって、結局、家族に言われたとおり就職したんですね。研究者じゃなくて、教師になった。後悔しなかったんでしょうか?」
「したと思うよ。今でも未練は残ってると思う」
「やっぱり、そっか」
「誰だってそうさ。何かを選んで別の何かを捨てたら、後悔するし未練もいだく。だけど、田宮先輩は教師になって、後悔や未練以上に大きなものを獲得できたはずだ。だから、今でもあんなに生き生きしてる。ユリトくんは、そう感じない?」
生き生きしている、か。確かに、田宮先生はほかの先生方と何かが違う。物理学や機械工学の知識が膨大なだけじゃなく、頭の回転が速いから授業がおもしろいだけでもなく、もっと別のどこかが特別なんだ。
田宮先生の何が違ってどこが特別なのか、今、少しわかった気がする。
悩んだり迷ったりする気持ちをちゃんと覚えているからだ。大人になる前のおれたちがたくさん悩んで迷うことを、忙しい大人たちは忘れがちだけれど、田宮先生は違う。だから、おれに龍ノ里島に行くことを勧めることもできた。
おれの睡眠障害を理解しようとしない先生も、実はいる。まさかあの剣持ユリトがサボり病にかかるなんて、と冗談っぽく話す声を、職員室のそばで聞いてしまった。睡眠発作を心配する母親がおれに学校を欠席させた翌日だった。
サボってない。本当につらいんだ。自分で自分をコントロールできない。この苦しみとみじめさを疑うなら、サボり病なんて言うあなたが同じ症状に陥ってみればいい。
悔しいのと同時に、ふつりと、張り詰めた糸の一本が切れた。他人からの信用を失うって、胸に隙間風が吹くような気分だ。寂しさと悲しさの中間。むなしさって言葉が、いちばん近い。
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