#05 魂が震える
01 レーサー
「なあ、兄貴。レーサーになるにはどうしたらいいんだろ? 何か知ってるか?」
ハルタが初めておれにそう言ったのは、おれが小学五年生のころだった。ハルタは小四だった。
それはプラモートの大きなレースの帰りのことで、おれはテンションが低かった。ギリギリのところでハルタに負けた。ストレートの多い、スピード重視のハルタの得意なコースではあったけれど、悔しかった。
「レーサーって、急に何言い出すんだ?」
「言い出したのは急だけど、前から思ってたんだよ。プラモートがチップに記憶したレースの再現映像を初めて見たときから、ずーっと思ってたんだ。おれ、レーサーになりたい!」
「レーサーって、プロのレーシングドライバーって意味か?」
「そっ! 世界一速いクルマに乗りたい!」
「世界一って、バカだな。どれだけ難しいと思ってる?」
「誰でもなれるもんじゃねぇのはわかってるよ。だから、なりてぇんだ、世界一」
ハルタは漠然と、レーサーになりたいと言うけれど、クルマのレースにもいろんな種類がある。
わかりやすいところでいえば、ツーリングカーとフォーミュラカーのレースは、見た目の印象が全然違う。ツーリングカーは、路上を走る普通のクルマと比較的似た姿だ。フォーミュラカーはタイヤがカウルで覆われていない、独特の形をしている。
サーキットの中でやるレースか、市街地の道路を走るか、オフロードの環境を駆け抜けるか。スプリントレースなのか、耐久レースなのか、ラリーなのか。
たいていのレースは、毎年決まったシーズンに開幕して、あちこちを転戦してポイントを加算していくチャンピオンシップ形式だ。フィギュアスケートやテニスの世界選手権と、システムが似ている。
そういうざっくりしたことを説明すると、ハルタは目を輝かせて聞いていた。そして言った。
「おれさ、昔から、F1ってカッコいいなって思ってた。普通のクルマはそこまで興味ねぇんだよ。だって、似てないじゃん、形」
F1というのは、フォーミュラカーレースの最高峰のシリーズだ。人ひとりがギリギリ乗り込める、速さだけを追求した極限のマシンがしのぎを削る。
「世界一になりたいって、F1レーサーになりたいって意味か?」
「F1レーサーの頂点に立ちたい。やるからには、狙うのは一位だろ! 今日のレースでおれのマシンがやったみたいにさ、将来はおれ自身が、誰よりも速いスピードで走ってやるんだ」
ハルタらしい、単純明快な将来の夢だった。
おれはちょっと納得した。ハルタがプラモートのレースを見守るとき、応援するというより自分に言い聞かせるようなエールを叫ぶ。「頑張れ!」じゃなくて、「行くぞ、行けるぞ!」って。ハルタはレース中、自分がプラモートに乗っているつもりになるんだろう。
なあ、と、ハルタがおれにまとわり付いた。
「どうやったら、レーサーになれるんだろ? F1のマシンに乗るにも、やっぱ、クルマの免許とかいるのかな?」
「いるんじゃないのか? 詳しくは知らないけど」
「へえ、兄貴も知らないことあるんだな」
「当たり前だろ」
「じゃあさ、誰に訊いたらわかる?」
「ネットで調べてみたらいい」
「どうやって調べんだ? ケータイ?」
「とうさんのパソコンを使わせてもらえよ。ケータイじゃメモリが小さいから、サイトによってはうまく表示されない。調べ物をするには、パソコンだ」
「ふーん。ケータイって、意外と不便なのか。そんじゃ、兄貴、家に帰ったら、調べんの手伝ってくれよ」
「手伝うって、おまえな、どうせおれが全部やることになるんだろ? 調べてくださいって言えよ」
「はいはーい。調べてくださーい。お願いしまーす」
ハルタは大雑把で、いい加減で、わかりやすくて、人に甘えるのがうまくて。気付いたら、ハルタの甘えを受け入れてしまっている。ハルタには、人の心を簡単に動かす何かが備わっている。
たぶん、そういうところがハルタの魅力っていうやつなんだろう。おれは、いちばん身近にそれを思い知っている。
調べてみると、F1マシンに乗り込むところまでたどり着くには、三種類のライセンスが必要だとわかった。
まず、普通の運転免許証。カートと呼ばれるマシンでのレースだけは免許証なしでいけるけれど、それ以外のクルマでレースに参戦するためには普通の運転免許証を持っていないといけない。
それと、国内向けのレースライセンス。クルマ好きの一般人でも、けっこう持っていたりするらしい。逆に言うと、国内向けのライセンスだけ持っていても、レーサーとして食べていくのは難しい。
だから、一人前のレーサーになるには国際レースライセンスが必要だ。レースの成績に応じてステップアップ試験を受けられる国際ライセンスで、最高ランクであるスペシャルライセンスを取得できて初めて、F1マシンに乗ることが許される。
「というわけで、三種類の免許証を取らなきゃいけなくて、何度も試験があるみたいだ」
「ふぅん。じゃあ、やっぱ、十八歳まで待たなきゃ、レーサーになるための修行とかができないってことか?」
「いや、レーシングカートっていうのは、免許なしでいけるみたいだ。カートのレースに子どものころから出場して腕を磨いてきたって人が、現役レーサーには多いらしい」
「えっ、何それ? おれでも出られるレースがあるってことか?」
「いきなりレースっていうのは無理だろ。まあ、でも、カートを運転することはできるんじゃないか? サーキットが近所にないか、とりあえず探してみよう」
「よっしゃ、何かワクワクしてきた! なあ、兄貴も一緒にサーキット行ってみようぜ。そんで、コースの上を走ってみるんだ。二人でレースしたら楽しそうだ!」
「バーカ。最初は練習だって言ってるだろ。あっ、ほら、このサーキットなら近いぞ。電車とバスを乗り継いだら、おれたちだけでも行ける場所だ」
「子ども向けの体験教室あるじゃん! 行くっきゃねぇよな!」
二人でパソコンの前で騒ぎながら、プラモート用じゃない本物のサーキットに思いを馳せて、親にも何も言わずに体験教室の申し込みをした。おれたちがあんまり騒ぐから様子を見に来た父親が、申し込み完了のメールを見て呆れて、同行してくれることになった。
たった一回の体験教室で、誰の目にも明らかな才能を発揮したのは、おれじゃなくてハルタだった。おれは「初めての割にはうまくできたね」と、大人から頭を撫でられる程度。ハルタは桁が違った。
予想できていたことだから、おれはショックを受けたりしなかった。ああ、やっぱりこいつが主人公なんだなと思った。
昔から年下のハルタのほうが足が速いし、うまく泳げる。鉄棒の大車輪も、バク転も、高いところから飛び降りながらの宙返りもできる。運動能力でハルタに追い付くのは、ちょっと器用に球技がこなせるだけのおれには、絶対に無理だ。
カート教室の授業料は高かった。それでも、ハルタは月に二回、サーキットに通うことになった。父親はおれも一緒に通うように勧めてくれたけれど、断った。レーサーになりたいという夢は、ハルタのものだ。おれが真似したって、どうしようもない。
危なっかしいばっかりの弟だと思っていたのに、譲れない夢を先に見付けたのはハルタのほうだった。取り残された気がした。おれとハルタは違うんだから、あせらなくていいさ。そう考えようとしても、何だかうまくいかなかった。
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