02 スクラップ

 龍ノ原小中学校の校舎は、木造一階建てで、屋根には瓦がふかれている。二百メートルトラックがギリギリ入る広さの運動場は、海と山に挟まれて、いびつな形だ。赤い屋根の体育館は、校舎よりは新しそうに見える。

 錆びた鉄棒や遊具、砂がすっかり減った砂場、見上げるほどに立派なヒマワリ、ハチが蜜を吸うサルビア。おれの知る小学校のイメージに似ていて、だけど、やっぱり決定的に違う。

「静かだな」

 セミの声と風の音、波の音しか聞こえない。子どもの声がしない空っぽの学校は、真夏の日差しの中で、今にも裏山に溶けていきそうに儚い。

 カイリはまっすぐに校舎の玄関に向かった。ハルタがその左隣を歩いている。

「玄関から入れんのか?」

「鍵、掛かってないから」

「この島って、鍵掛ける習慣がまったくねぇんだな」

「よそでは、鍵掛けるんだ?」

「掛けるだろ、普通」

 カイリとハルタを後ろから眺めて、いつもの配置と同じだなと思う。ハルタが左、幼なじみの千奈美チナミちゃんが右、おれが後ろ。ハルタが後ろ向きになって歩いたり、チナミちゃんがおれを振り返ったりすることはあっても、配置が崩れることはない。

 チナミちゃんはハルタと同い年だ。おれが一人、先に中学に上がった年も、相変わらず三人一緒に通学していた。おれたちの学区の小学校と中学校は、目と鼻の先にある。

 この島では、目と鼻の先どころか、小学校と中学校が一緒になっているらしい。校門の門柱にあった「小中学校」の文字を思い出していたら、おれが考えているのと同じことを、ハルタが声に出してカイリに確認した。

「なあなあ、カイリ。小中学校って、小学校と中学校がくっついてるってことだよな?」

「そうだよ。別々の校舎を使うほどの人数、いないから」

 運動場の砂で白く汚れたガラス張りのドアは、確かに鍵が掛かっていなかった。校舎に入ると、薄暗い。こもって蒸し暑い空気の中、かすかに隙間風を感じる。黒ずんだ板張りの床には砂がうっすらと積もっている。

「靴のまま上がって」

 言いながら、カイリはスニーカーで廊下に踏み出した。ハルタが続いて、おれも追い掛ける。

 玄関に並ぶ下駄箱は、ざっと見た感じでは三百人ぶん以上あった。違和感というより、疑問を覚える。またしても、ハルタもおれと同じタイミングで同じことを思ったらしく、それを口にした。

「下駄箱、やたら多いんだな。子どもの数、こんなにいなかったんだろ?」

 カイリの答えは、少し意外だった。

「昔はいたんだよ。龍ノ原小学校だけで、各学年二クラス。龍ノ尾の根元にも、もう一校あった。山を越えた反対側に集落があったし。もちろん、その当時は、中学校は小学校と別だった」

 今の龍ノ原には朽ちた家ばかりが残されている。原形を保って建っている家も、ほとんどが空き家だ。おれは今朝、カイリと一緒に家に帰る途中でおばあさんひとりと話したほかは、誰とも会っていない。

 校舎の壁は、白い漆喰で塗られていた。窓のサッシは赤錆びがビッシリの鉄製で、ねじ込み式の鍵は、工学事典で見たことがある。事典の説明どおりに開けてみようと思ったら、鍵もすっかり錆びていて、少しも回ってくれなかった。

 職員室、保健室、放送室、校長室、理科室、音楽室、図書室。毛筆で書かれた表札を巡りながら、開け放たれた引き戸から中をのぞき込む。

 何もなかった。

 机も椅子も教卓もカーテンも、保健室のベッド、放送室の機械、校長室のソファ、理科室の実験道具、音楽室の楽器、図書室の本も、全部ない。それらがあった形に、板張りの床が日焼けを免れている。

「すげぇな。誰もいないし何もないって、別世界みたいだ。ここ、学校の抜け殻だな」

 ハルタが天井を見上げて言った。カイリがうなずいた。

「抜け殻だよ。学校も、龍ノ原の町も」

「町っていうサイズじゃねぇだろ。あー、でも、昔は違ったんだっけ?」

「漁業の基地になってたころは、いつでも二千人以上、人が住んでた。漁に出てる男たちが帰ってくると、もっと増える。子どももたくさんいた。クジラが獲れたらすごくお金になってたし、そのころは龍ノ里島がこんなに寂れるなんて誰も思ってなかった」

 昔って、どれくらい昔の話だろう? 確か、昭和四十年代って言っていたかな。カイリは見てきたように話すけれど、龍ノ里島が潤っていたのは、おれたちが生まれるずっと前のことだ。

 当然の疑問が湧いて出る。

「どうして人がいなくなったんだろう?」

 カイリが答えた。

「魚、売れなくなったから。クジラ、獲っちゃいけなくなった。漁で稼げなくなったら、漁師は違う仕事を探さないといけない。違う仕事は、龍ノ里島にはない。人がいなくなるのは、あっという間だった。小学校が減って、一つになって、中学校も小学校に合併された」

 カイリが足を止めた。教室の前だ。表札には、一年生、三年生、四年生と並べて書かれている。カイリが教室に入って、おれとハルタも付いていく。黒板には文字が残されていた。幼い字で書かれたいくつもの「ありがとう」のそばに、三人の名前が添えられている。

 黒板に触れたカイリが、おれとハルタを振り返った。

「この三兄弟が、龍ノ原小学校の最後の子どもたち。学年の違う三人が、一つの教室で授業を受けてた。でも、こんなの、学校って言える環境じゃないよね。去年の三月で、三兄弟の家族は龍ノ里島から引っ越していった。もう二度と戻ってこない」

 ハルタが汗を腕で拭って、ギュッと顔をしかめた。

「寂しい話だな。仕方ないかもしれねぇけど」

「うん、仕方ない。もうすぐ、この町は滅ぶ。わたしはそれを見届ける。そうすることしかできない」

 カイリが目を伏せた。長いまつげの奥に瞳の輝きが隠れる。この学校は、カイリの母校だ。最後の一人だったんだ。

 おれは正直に言った。

「想像できないな。同じ小学校や中学校に通うのが自分の兄弟だけって。おれとハルタは学年が違うから、当然クラスも違う。それが普通だよね。そうじゃない学校があること自体、想像を超えてる」

「ユリトの感覚が普通だと思う。こんなに人間のいない場所のほうが珍しい」

「おれにとっての学校はもっと大きな場所だよ。たくさんの人間がいて、そのぶん窮屈で」

「窮屈?」

「役割を演じないといけない。おれは生徒会長をやってるし、特にね」

 学校におれとハルタだけしかいないなら、気楽なんだろうか。それとも今以上に、ハルタと違う人間でいなきゃいけないと、意地や見栄を張ってしまうんだろうか。

 三人だったらどうだろう? おれとハルタと、幼なじみのチナミちゃん。

 最悪だな。おれだけ蚊帳の外だ。

 ごまかしようのない人間関係に、他人に本心を見せられないおれは、きっとだんだん酸素が足りなくなっていく。追い詰められるに決まっている。

 ああ、なるほど。小さな小さな社会になった龍ノ原からよそに移っていく気持ちが今、少しわかった。

 だって、一から十までお互いのことを知ってしまう距離の人間関係なんて、おれにはうまくやれない。やり方がわからない。

 カイリが静かに告げた。

「わたしは、生まれたらいつか滅ぶのは当たり前だと知ってる。学校が一つ消える。町が一つ消える。いつか迎える運命だとわかってたから」

「八月の終わりに、みんな引っ越してしまうんだっけ?」

「うん。隣の大きな島に移る人、本土に移る人、親戚や子どものいる都会に移る人、いろいろ。とうさんは隣の島で発電の研究や管理の仕事を続ける。龍ノ里島の発電施設が、そっちに移るから」

「きみもスバルさんと一緒に隣の島に行くんだよね?」

 おれの質問に、カイリは目を伏せたまま、そっと笑った。その寂しげな表情が、おれの胸の奥に刺さる。

 ハルタも同じ痛みを感じたらしい。慌てた口調で言い募った。

「カイリなら、どこ行っても、うまくやれるって! かわいいし、運動得意だし、何だかんだ物知りだしさ。うちの学校とか転校してきたら、一瞬でファンができそうだよな。男子はもちろん、女子からもモテそうじゃん? なあ、兄貴!」

「えっ? ま、まあ、そうだな。こんな人数の少ない学校からの転校じゃ、最初は大変だろうけど、か、カイリなら大丈夫じゃないかな」

 言葉が素直に出ていかないのは、どうして? 自問の答えは、素直に見付かる。

 ハルタがあっさりと、カイリをかわいいと言ったから。カイリがモテるだろうというのは、ハルタ自身がカイリに惹かれているから。カイリなら確かに、どんな場所にいても、変わらないカイリでいられそうだから。おれはうまくやれないのに、カイリならできそうだから。

 自分にできないことを、目の前にいる誰かは簡単にやってのける。それを見せ付けられると、おれの体の奥で嫉妬がきな臭い煙を上げる。醜い感情にいぶされて、おれは内側からじわじわと、黒く染まっていく。

 イヤだ。こんな自分は嫌いだ。止めてくれよ、誰か。

 でも、誰も気付かない。おれが笑顔の仮面の下でいつだって他人に嫉妬していることに、いちばん身近なはずのハルタでさえ気付いていない。信じられない鈍感野郎だ。おれがいちばん嫉妬する相手はハルタなのに。

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