車道の下の柵の内側

因口ゆうき

第1話

 彼は車を運転する事が好きではなかった。中古の軽は通勤専用だった。意識の氷山の裏側で彼は車を運転するという行為をいわゆる社会人であることの証明だと考え、可能な限りそれを拒絶していた。彼はその種の人間だった。


 土曜日で休日だった。買い物の帰りに彼は普段とは別の道が歩いてみたくなった。特に何と言う理由のあるでもない、ただの気まぐれだった。


 その道はいつも通勤に利用する高架車道の足元に沿って細長く延びていた。夏の午後の刺すような日差しは頭上を走る車道に遮られ、ひんやりと濃ゆい影が落ちていた。歩くにはとても心地の良い道だった。絶え間く頭上を行き交う車の音に耳を寄せ、彼は今が土曜の午後であることに静かな歓びを感じた。高架車道は等間隔に二列に並ぶコンクリート柱に支えられながらゆっくりと頭上を下り、長い距離の先で彼の歩く道と縒り合わされていた。柱の間を抜けて車道の下を潜った先にも、彼が歩くのと同じような細い道が伸びていた。


 少しして彼は子供の声が聞こえる事に気付いた。車道が五メートルほどの高さにまで下がった地点で、それを支える柱の間には緑色のフェンスが巡らされ、その内側の空間が公園として利用されていた。子供らはそこにいた。走り回り遊んでいた。フェンスに囲われたその空間は、車道の高さが一メートル程に下がるまで広く続いていた。天井が徐々に低くなってゆく事と日差しがほとんど無い事を除けば、そこはとても上等な公園だった。地面にはグラウンド用の真砂土が敷き詰められ、バスケットやサッカーのゴールを含めた一通りの遊具が備えられていた。フェンスに寄せて幾つかのベンチが並べられ、その傍には水飲み場まであった。

 

 張り巡らされたフェンスは車道に触れる寸前まで高くそびえていた。歩きながら彼はその内側を眺めた。何人かの子供は上半身を裸にしていた。陽の当たらないその公園を遊び場にしている為だろう、日焼けの無い肌は青い血管を透かすほど白く艶やかだった。シャツはベンチの上に脱ぎ捨てられていた。フェンスを隔てて彼のすぐ傍で一人の子供が別の子供に後ろから羽交い絞めにされて掴まった。裸の脇腹に腕を回され、くすぐったそうにけらけらと笑う口の奥では、貝殻の破片のように小さな乳歯がてらてらと唾液に濡れていた。彼は公園への入り口を探した。フェンスの内側のベンチに座りたかった。だが道路に面したフェンスには公園への入り口らしきものは見当たらなかった。恐らく入り口は公園を挟んで反対側の道路に面しているのだろう。引き返して車道の下を潜れば済む話だったが、彼はそのまま歩き去った。わざわざ来た道を引き返してまで子供らの遊ぶ姿を眺める事に対して、自分を納得させるうまい言い訳を用意することが出来なかった。


 ※※

 

 九人の子供がケイドロをしていた。ケイサツが四人、ドロボウが五人だった。息切れも無く彼らは走り回った。制限時間などは決められていなかった。ドロボウが全員捕まえられるかケイサツが降参するまでそれは続けられた。


やがて最後のドロボウが捕まえられた。負けた場合ドロボウは銃殺されることになっていた。ケイサツの一人が銃を用意する間、他の三人はドロボウを横一列に並ばせて跪かせた。袖を括って袋状にしたTシャツをその頭に被せた。このやり方は彼らの内の一人がyoutubeの動画から真似たものだった。拳銃はプラスチックのケースに入れてベンチの下に保管されていた。銃にはグリップの滑り止めも、照星も、安全装置さえ存在していなかった。銃身の先端が細く突き出したデザインはルパン三世のワルサーP38をモデルにしていた。それは全ての子供の手にぴったりと収まるよう縮尺を歪められていた。銃を持つ子供は跪くドロボウに狙いを定めた。撃鉄を起こすことを忘れていた。引き金を引いた。撃ち込まれた弾丸は頭部を貫通し、乳歯を吹き飛ばしながらシャツ突き破って地面にめり込んだ。少し遅れてシャツが赤く染まった。ドロボウは頭から地面に崩れ落ちた。ケイサツは声を上げて笑った。順番に銃を撃った。


 夕方六時近くまでケイドロを続けた。やがて子供らは公園を出た。フェンスの内側から外へと出てゆく瞬間、彼らはいつも肉や骨の内側に幽かな違和感を感じた。それは彼らの内側に存在する何かに対しての圧力の変化だった。一切の制約も無く無定形に彼らの中から溢れ出し、公園の内側を完璧に埋め尽くしていたそれは、今や公園外の空気の圧力によって輪郭を与えられ、彼らの肉や骨の内側に強く押し込められていた。公園の外ではそれが正しい形であることを彼らはきちんと理解していた。


 九人の子供は家に帰った。


 ※※

 

 日曜日の午前中に彼は買い物に出かけた。特に必要なものがあるわけでもなかった。行きは普段どおりの道を使った。帰りには日差しが強くなってきたので、高架車道下の道を選んだ。頭上を伸びる車道の影は、午後に歩いた昨日とは反対側の道に落とされていた。心地よい影の下を彼は歩いた。公園への入り口はそちら側の道に面しているはずだった。


 遠目に見てフェンスの内側に子供らの姿が無いことが分かった。遊び始めるのは昼食を済ませてからなのだろう。パンやコーヒーと一緒に彼は文庫本を買っていた。ベンチに座りゆっくりとそれを読むつもりだった。やがて緑色のフェンスが車道下の空間を囲い始めた。歩きながら彼は指先でフェンスをなぞった。車道の揺れが伝わるのかそれは細かに振動していた。やがて彼は公園の端に辿り着いた。それが一体どういう意味を持つのかうまく理解することが出来なかった。来た道を引き返した。公園の反対端に着くと今度は車道の下を潜り、昨日の道を同じように歩いた。その間一度もフェンスから目を離さなかった。汗を拭い彼はぼんやりと立ち尽くした。車の流れる音が嫌に耳に障った。公園に入り口が存在していないという事実が徐々に意識の表層を覆い始めた。そんなことはありえない。彼は首を横に振った。低まった車道の下を潜る側のフェンスはまだ見ていなかった。彼は背を丸め上下の道路が交わる寸前の高さ一メートル程度の隙間を歩いた。殊更に濃ゆい影の中でフェンスに目を凝らした。そこにも入口は無かった。彼は何度も公園の周囲を回った。意識の穴に落ちて見落としている部分があるはずだった。入り口は何処かに存在していなければならなかった。

 車道や柱とフェンスとの間には僅かな隙間があった。彼はその隙間から出入りすることの可能性を考えた。だが最大の箇所でも隙間は十センチ程度しかなかった。たとえ子供らの体でもその隙間を潜り抜ける事は明らかに不可能だった。実際に彼はフェンスをよじ上り車道との隙間に手を入れてみた。二の腕から後を入れることさえ出来なかった。最後にもう一度だけ公園の周囲を回った。


 公園に入り口は存在していなかった。汗だくになってフェンスに寄りかかりながら彼はそれを認めた。


 昼過ぎに彼はもう一度公園を訪れた。フェンスの内側で子供らは泥まみれになって遊んでいた。もはや絶望的な寂しさと愛おしさを持って、彼はフェンスに顔を寄せた。


 ※※


 九人の子供は地面を掘ることが好きだった。休みの日は午後のほとんどの時間をケイドロと地面を掘ることに費やした。その二つに関して彼らは飽く事を知らなかった。公園へ来るまでの道で手に入れた石や木の棒を使い、無限の深みにまで彼らは地面を掘った。 


 一人の子供が土の中から水晶の髑髏を見つけ出す傍で、別の子供は大人の想像力の埒外にある生物の角を掴んだ。また別の子供は金と銀と花と虫を山のように掘り起こした。別の一人の子供は牙の生えた古代の獣の死骸を見つけた。空気に触れると供に蘇った獣はその子供のことを「主」と呼んだ。別の子供は自らの使う木の棒が実は驚くべき魔力を秘めた異世界の殺戮兵器であることに気付いた。そして共同で地面を掘り進めていた残りの四人の体を一瞬の内に粉々に吹き飛ばした。血や肉の粒が音を立てて降り注いだ。子供はけたたましく笑い転げた。その為に背後から忍び寄る古代の獣の姿に気付くことが出来なかった。そしていとも容易く首を引き千切られて死んだ。役割を終えた獣は再び一億年の眠りについた。


 一人の子供がふと地面から顔を上げた。フェンスの外側から自分達を見詰める大人の姿に気づき、言語外の方法で他の八人にそれを伝えた。子供らは顔を見合わせた。そして首を横に振った。すぐにまた穴を掘る事に戻った。


 しばらくしてケイドロを始めた。昨日と同じように夕方の六時近くに公園を出た。

 

 ※※


 中古の軽で高架車道を走り、彼は通勤を繰り返した。フェンスに囲われた公園やその内側で遊ぶ子供達の姿は、常に意識の中心にあった。彼の仕事は工場内での単純作業だった。不注意によるミスが続いた。木曜日の終礼後に彼は上司に呼び出された。強い言葉で注意を受けた。帰り道にホームセンターへ寄った。彼はそこでワイヤーカッターを購入した。


 ※※


 ケイドロをしていた。ドロボウが勝った。ケイサツは首を裂かれた。


 そういった事は無定形に公園を満たす彼らの内側によってのみ行われるということを、無言語的にではあるが子供らは九人とも理解していた。そして今はまだ違和感を感じさせるフェンスの外側の圧力が、やがてはしっかりと体に馴染み、無定形の何かは永久の輪郭を与えられ、自分達はこの公園のような場所を失うことになる、そういった事をも彼らは知りつつあった。だからこそ彼らは彼ら自身と供にこの公園を愛していた。


 特に理由は無く処刑には純銀のナイフが使用された。勢い良く吹き出した血は空中に弧を描き地面に降り注いだ。


 ※※


 金曜の深夜に彼は公園へ向かった。風も無くぬめぬめと蒸し暑い夜だった。彼は低まった車道の下に潜り込み携帯電話のライトを点けた。中腰のまま公園のフェンスに背中を押し付け、抱えていた紙袋から買ったばかりのワイヤーカッターを取り出した。巨大な鋏に似たそれは携帯電話のライトを受けて嫌にびかびかと光り輝いた。その眩しさに彼は現実感を持つ事が出来なかった。グリップを握り締め跳ね起きるようにフェンスから背を離した。その勢いのまま半回転し、公園を囲う緑色のフェンスに向かい合った。その内側をライトで照らした。光は公園の半ばにさえ届かなかった。


 ワイヤーカッターの刃を開いた。その上下の刃をそれぞれフェンスの網目に深く差し込んだ。刃を通してフェンスの振動が感じられた。彼はただフェンスの内側に居たいと思った。ベンチがあるのだから、そこに座ることくらい許されるのではないか、そう思った。精一杯力を込めて彼は刃を閉じた。フェンスは打ち震えた。振動は骨身にまで通じた。上下の刃は緑色のコーティングを突き破り、僅かにその内側の金属に食い込んだ。なおもグリップに力を込め続けた。筋肉は焼けるように疼いた。関節は痺れ、食い縛った歯から頭頂にかけて刺すような苦痛が生じた。頭蓋骨の内側で何かが音を立てて煮えたぎるような熱を感た。腹の底から呻り声を上げた。


 何十秒かの後に彼はグリップから手を離した。手首から指先に至るまで両手は脈打つような痛みに覆われていた。全身に汗が滲んでいた。フェンスに刃を食い込ませたままワイヤーカッターはそこにぶら下がっていた。信じ難い事に上下の刃は閉じ切られていなかった。彼は首を横に振った。再びグリップを握った。握力はその大部分が失われていた。叫び声を上げながら彼は刃を閉じ続けた。同時に身体全体で踊るようにめちゃくちゃにグリップを振り動かした。永延と彼はそれを続けた。次第に彼の声は悲鳴へと変化していった。誰かに聞かれることなど考えもしなかった。フェンスは軋むような音を立てた。やがて彼は上下の刃が金属に抉り込むのを感じた。グリップを握り締め渾身の力で刃を閉じた。まるで引きちぎろうとするように強くフェンスを揺さぶった。刃がこぼれる事にも気付かなかった。重い音をたてて上下の刃はフェンスは切断した。同時にその切断面から数センチの部分が外へ向けて飛び出すように捩じ曲がった。

 甲高い音を立ててワイヤーカッターは地面に落ちた。彼はその場に崩れ落ちた。ただひたすら呼吸だけを繰り返した。全身が鈍い痛みに覆われていた。痛みは肉や骨の内側から幾らでも湧き出してくるように感じられた。酷い吐き気がして、鉄の味のする唾を吐いた。地面から立ち上がることも出来ないまま、彼は携帯電話のライトを点けてフェンスを見上げた。歪な切断面から外へ向けて捩じ曲げられたフェンスの一部は、その先端を真っ直ぐに彼へ向けていた。彼はじっとそれを見詰めた。


 矮小な破れ目だった。彼に出来たのはそこまでだった。


 携帯電話の画面を見ると日付は土曜日に変わっていた。車の音が聞こえていた。這いずるようにフェンスにしがみつき彼は立ち上がった。網目を通してその内側の暗がりを眺めた。とても深く寂しかった。彼は立ち去った。


 ※※


 九人の子供は公園で遊んだ。彼らはまず穴を掘った。次にケイドロをはじめた。いつもと同じだった。


 誰もフェンスの破れ目には気付かなかった。公園の内側を満たす彼らの中の無定形な何かは、その破れ目からほんの少しずつ外へと漏れ出していた。沈めた瓶の口から泡が吹き出し、代わりに水が流れ込むように、漏れ出した何かの代わりに、フェンスの外側の空気が公園を満たし始めた。ごくゆっくりとそれらは置換された。


 ドロボウになった一人の子供がいつまで逃げ続けた。他の誰よりも足の早い子供だった。やがてケイサツは降参を宣言した。他のドロボウは手を叩いて喝采しナイフを持ってケイサツに歩み寄った。五時半を少し過ぎた頃だった。足の速い子供はまだまだ走り足りなかった。ふと思いつき鬼ごっこを提案した。他の八人は喜んでそれを承諾した。ドロボウはナイフを捨てケイサツは開放された。提案者が鬼になった。鬼だけがナイフを持った。


 合図と共に鬼を除く八人の子供が一斉に逃げ出した。十数え、鬼は走り出した。


 一人目の子供は背中から心臓を突き破られた。一緒に逃げていた二人目の子供は地面に押し倒され首を裂かれた。三人目の子供はベンチの後ろに隠れようとしている所を気付かれ、後頭部に根元までナイフを突き立てられた。四人目は鬼の目の前で転んでしまい、そのまま首を切断された。五人目は鬼を前にしてひらひらと身をかわし続けたが、やがてフェンス際に追い詰められ、腹を横に裂かれた。六人目は両手を挙げてその場に立ち尽くし、逃げるそぶりを一切見せなかった。顔面に鬼のナイフが突き立てられると同時に、その背後から七人目が飛び出し、一気に鬼との距離を開けようとした。とっさに鬼は腕を伸ばして飛び掛り、間一髪の所で背中にナイフを刺した。倒れこんだ所を馬乗りになって背中をめった刺しにした。八人目は車道が低く下りてゆく側へと追い詰められた。僅かに丸めた背中がフェンスにぶつかり、それほど大きくも無い音を立てた。鬼はナイフを振り上げた。八人目の子供はそれを口の中に突き入れられた。崩れ落ちたその身体の後ろにフェンスの破れ目があった。


 網目の一部が歪に切断され、そこから数センチの部分が外へ向けて捻じ曲げられていた。その矮小な破れ目の為に、もはやフェンスの内側と外側の区別は失われていた。ナイフが地面に落ちた。それは音をたてなかった。


 もうじき夕方の六時になろうとしていた。子供は公園に立ち尽くした。


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車道の下の柵の内側 因口ゆうき @yuki3416

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