櫂の意味
「わーお! 何すか、師匠、これ」
自分が一番乗りだと知ってちょっと良い気分の門下生は、板張りの道場の隅で上半身をはだけて背中を向けた諏訪田剛人に声を掛ける。
そんな彼を見るのは珍しい事ではない。一人で鍛錬をした後に身体を冷ましている諏訪田がいるのは良くある事だ。
ただ、その横にずらりと酒瓶らしき物が並んでいるのは初めてである。しかも、よく分からない文字の銘の洋酒らしきものは、どうもラベルが紙ではなく革のようだ。いつの時代の物かと危ぶみたくなる。
「何って酒に決まってんだろ。あいつはそう言ってたぜ」
一つ肩を竦めた諏訪田が振り返る。
「げっ! ど、ど、どうしたんです! 何やらかしたんですか!?」
「ご挨拶じゃねーか」
とは言えど、門下生を責める事は出来ないだろう。何せ、右目の周りには痣ができ、左の頬は腫れている。上半身の各所も赤くなっており、べたべたと湿布が貼り付けてあった。
「土産だ。こいつもな」
まるで勲章でも誇るかの如く顔を示す。
「はぁ? 意味分かんないっすよ!」
「昔の弟子が礼に来ただけだって。それでな」
「冗談じゃないっすよ! 師匠をそんなにできる奴なんか居るわけねえ! 何人だったんすか? 俺らで落とし前付けさせてやるっすよ!」
諏訪田に敵う門下生などいない。それが複数でもだ。格闘界でもそれほど強い人間はいないと彼らはは思っている。
そうであるならば、大勢詰めかけて袋叩きにしたに決まっている。数には数で対抗するまでだ。道場の門下生は彼に鍛えられて相当の腕になっているはず。
「馬鹿野郎。一人に決まってんだろ?」
当の諏訪田は妙に上機嫌である。
「信じられねえっす。どんな怪物っすか?」
「ああ、世の中にゃ、お前が想像もつかないような怪物が存在するんだ。あいつ、とんでもなく強くなりやがって」
ニヤニヤしつつ頬を撫でる。理解が及ばなくて頬が引き攣る門下生。
「何で嬉しそうなんすか?」
「そりゃ嬉しいだろう? 自分の育てた奴が、想像通りに強くなってたんだぜ?」
「そんなもんすか」
この日の一番乗りは全然美味しくなかった。なぜなら次々にやってくる門下生に同じ説明をする羽目になったからだ。
◇ ◇ ◇
「わ! どうして!?」
帰宅した矢崎慎二郎は悲鳴を上げざるを得なかった。
ソファーに座る妻の礼美は真っ赤に泣き腫らした目をしている。隣には義母の礼子が掛けて彼女の背中をさすり、反対側には娘の礼依がぴったりと身を寄せて宥めている。妻はまだ瞳を潤ませて、義母に目を押さえてもらっている。そして、対面には義父が長男の空也を抱いてあやしていた。
「どうしたんですか、お義父さん?」
いつも落ち着いている流堂家の家長、修が困り顔をしているのだ。
「うむ、まあ座りなさい。疲れているのだろう?」
「いや、そんな事はどうでもいいんですよ」
腰掛けながら彼は混乱していた。
慎二郎は流堂家の家業を継ぐ決心をして、辞職の意思を社に伝えている。ところが極めて成績優秀な彼を、勤めている商社は慰留に慰留を重ねて何とか思い止まらせていた。
交換条件として、社内規定による短時間勤務の特例措置を適用した。彼は週の前半四日間しか出社せず、勤務時間外の連絡関係も免除されている。それでも幾つかのプロジェクトを切り盛りし、常に成功に導いていた。
無論、彼と組んでいるプロジェクトチームが優秀で不測の事態にも彼抜きで対応出来るほどの実力があるお陰だが、短時間の勤務で現状を把握して指針を示し、幾つかの選択肢と対応を準備しておける慎二郎の実力も大きい。だからこその慰留でもあった。
この日は出勤日であり、両親も昼間は二人揃って美術館に出掛けると言っていた筈だが、留守のうちに何か起こってしまったのかと案じる。
「これだ」
修が彼に示す。デジタルフォトフレームだ。
「なっ! 櫂くん!」
「帰ってきてたみたいなの、あの子」
「どこにいるんです!」
礼子が伝えてくるが、慎二郎はそれどころでない。言いたい事なら山ほどある。
「それが礼美にも会わずに行っちゃったみたいで」
「ぐぅ、何だ君は! どれだけ礼美を悲しませるんだ!」
「怒っちゃダメ!」
見れば礼依が頬を膨らませている。
「礼依がいっぱい遊んでもらっちゃったから時間が無くなっちゃったの! 櫂お兄ちゃんは悪くないの!」
「う、そうなのか」
潤んだ瞳で睨まれては言葉に詰まる。
「ごめんね、ママ。礼依ばっかり楽しくて」
「良いの。違うのよ、ママは櫂が生きていて、私達の事を忘れないでいてくれただけですごく嬉しいの。泣いてばかりでごめんね」
どうやらそういう事情のようだ。確かに櫂は以前から子供には特に優しかった。子供達も彼が好きで親戚の集まりの時などは囲まれていたものだ。
「ううん、でも礼依と空也だけお土産もらっちゃったし……」
彼女は母親に気兼ねしているらしい。
「それでいいの。素敵ね、それ」
「えへへー、いいでしょー」
礼依の腕には金属製の腕輪がある。だが、普通の装飾品ではなさそうだ。
「パパにも見せておくれよ」
「嫌。お兄ちゃんを悪く言うパパは嫌い」
「……謝るから、ね」
礼依は渋々腕から外して見せてくれた。
(ちょっと待て。この重さ、純銀製か? この量ならそこそこの値になる。子供に渡すようなものじゃないぞ)
慎二郎が勤めているのは金材部門。貴金属から金材まで手広くやっているので慣れている。一目で分かった。
(それもそうだが、これは何だ? 英語じゃない。フランス語でもドイツ語でもイタリア語でもない。見た事もない言語だ)
英語なら専門用語まで通じているし、他の言語も最低限の会話くらいは可能な彼が、触れた事もない言語が装飾されている。
「空也にはこれ。どらごんのうろこだって」
礼依が差し出した物を受け取る。
(また陳腐な子供騙しを)
多少ギザギザしているが、鱗らしい楕円形の物体だ。
(おい、これ何だ? 軽い。べっこうとかそんな重さなのに硬い。金属並みかそれ以上だぞ?)
混乱して手が震える。
「いったい君はどこで何をしているんだ、櫂くん」
思わず考えた事が口から零れてしまう。
「どこでも構わんのだよ、慎二郎くん」
「お義父さん?」
「私はあれに如何なる場所でも如何なる状況でも、自分が目指したところへ辿り着けるよう『櫂』と名付けた。もう辿り着いたのか、まだ漕いでいるのかは分からんが、それがどこでもあれは自分が信じたように生きていけるんだ」
(この一家の絆には勝てないな)
自分がそこへ加われる日はいつになるだろうと慎二郎は思った。
◇ ◇ ◇
礼依は宝物の腕輪を大事にしている。仕舞い込んだりはせずに、出来得る限り身に着けるようにもしていた。
不思議な事に、腕輪は彼女の成長とともにいつもピッタリに填まってくれる。それを誰かに言ったりはしない。ご利益が薄れるような気がしたからだ。
その後も彼女は順風満帆な人生を送る。怖ろしいと思えるほど運に恵まれ縁にも恵まれた。櫂には二度と会えなかったが、礼依はずっと感謝を捧げていた。
腕輪に刻まれている文字が大いなる意思への加護を求める語句だと知らないまま。
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