礼依

 少女は砂場で山を作って遊んでいた。持ってきたジョウロに水は汲んできてある。この後、少し水を掛けてやれば砂は固まり易くなり、お城を作るに適したものになる。


乃愛のあちゃんも季久美きくみちゃんもまだ来てないけど寂しくなんかないもん)

 四歳の少女は今日、河原までお花を探しに行く気分ではなかったのだ。

(ママは空也くうやが夜中も泣くから大変そうだし、わたし、一人でも大丈夫なんだもん)

 要は少し不貞腐れていたのである。


 春に産まれた弟はまだ半年に満たない。産まれてすぐはお姉ちゃんになったのだと張り切っていたが、父も母も掛かり切りとなるとやはり面白くはない。

 それでも八つ当たりは嫌な優しい少女は面倒を掛けまいと公園まで一人でやってきて遊んでいた。


「矢崎礼依れいちゃんだね?」

 その時、柔らかな声音の男の声が聞こえてきた。

「う……、ん?」

「一人かい?」

「ママはおうち」


 振り向くと、何の変哲もない若い男がいる。着ている服はあまり見慣れない様式のものだと思ったが、見るからに普通の日本人。


「知ってる!」

 ただ、少女はその顔に見覚えがあった。

「えーとね、えーとね、ママのね……」

「そう。姉さん……、ママの弟。櫂って言うんだ」

「かい! 櫂お兄ちゃんだ!」


 その名も母や父、同居する祖父や祖母の口からも折に触れて耳にしている。だから初めて会ったような気はしなかった。


「なんで? 居なくなったって言ってたのに」

 そう聞いている。

「ちょっとだけ帰ってきたのさ。礼依ちゃんに会いたくなってね」

「ほんとー! やったー!」

「僕と遊ぼうか?」

 本当は寂しかった少女は、彼が自分を選んでくれたのが嬉しくて仕方なかった。

「うん!」


 櫂はいくら礼依が我儘を言っても笑って付き合ってくれる。手先も器用で、いつにない完成度のお城が出来上がりそうだった。


「あの……、あなたは?」

 それは公園のベンチで談笑していた母親達の一人だった。顔見知りではあるものの、連れているのは赤ちゃんばかりなので気が向いた時にしか構ってくれないが、心配したのだろうか?

「ああ、ご心配をお掛けして申し訳ございません。怪しい者ではありませんのでご安心を。僕はこの子の叔父に当たるものです」

「そ、そう? 礼依ちゃん、本当?」

「うん、ほんとだよ! ママが時々見てる写真の人。櫂お兄ちゃん」

 確信している。ただ、その写真を見ている時の母は少し悲しそうで気掛かりではあったが。

「ずっと外国暮らしをしていたので会うのは初めてですが、間違いありませんので」

「うーん、確かに礼美さん、弟さんが居るって言ってらしたわねぇ」

「大丈夫だもん!」


 そう言われれば櫂の口調はおかしなところがある。ちょっと外国訛りのようなものを感じられた。

 物腰の柔らかさも手伝い、母親達も納得したようである。そうしているうちに乃愛や季久美も母親と一緒に公園にやってきた。

 礼依は皆に櫂を紹介し、一緒に遊び始める。櫂は実にいろんな話を知っていて、少女達を楽しませた。少女はそれを自慢に感じて嬉しくて仕方ない。

 いつの間にか彼の周りには多くの子供達が集まってきて輪が出来ている。その中心で櫂は聞いた事もない外国の歌を歌ってくれていた。礼依は楽しくなって、一生懸命真似をして歌う。いっぱい間違っているだろうが、彼は朗らかな笑顔で彼女に教えるように歌い続けた。


「さあ、おうちに着いたよ」

 櫂は礼依を家まで送ってくれた。

「ママ、喜ぶよ」

「ごめんね。僕はそろそろ帰らなきゃいけないんだ」

「えー、もう行っちゃうの?」

 不満で瞳が潤み、視界が歪んでくる。

「また来てくれる?」

「そうだね。僕はいつも君達の事を思っているよ。とても大切な家族だから」

「えへへ」

 この数時間はずっとべったりだった。少女はちょっと満足していたので、彼の言葉を深く捉えていない。

「ずっと見守っているから、元気で暮らすんだよ」

「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」


 彼から伝言を受け取った少女は手を振りながら門をくぐり、玄関ノブに手を掛ける。振り返ると、もう櫂の姿は無かった。


   ◇      ◇      ◇


「ただいまー!」

 その声で礼美は目が覚めた。


 少し眠っていた。空也が夜泣きするので寝不足気味で、うたた寝してしまったようだ。

 赤ん坊が泣くのは当然の事なので構わない。ただ、まだ四歳の娘の事を失念していたのが怖ろしくて飛び起きた。


「礼依!」

 慌てて玄関まで行くと、靴を脱いだ娘が足拭きを手にしていた。躾けた事をちゃんと守る本当に良い子だ。

「今まで公園に?」

「うん!」

 時計を見ると数時間が経過している。彼女は青褪めた。無事に帰ってきた少女を抱き締める。


 弟が泣き止んだらすぐに後を追い掛けるつもりだったのに、長い時間放置してしまったのを悔やむ。こんなでは母親失格だ。


「どうしたの、ママ?」

 震える母親を不審に思ったのだろう。

「良かった。礼依が無事で」

「えー、全然大丈夫だよー。礼依、一人でも遊べるもん」

「それでも心配なの」


 運が良かったとしか思えない。確かに団地の公園なら基本的に誰かの目がある。危険な目に遭う可能性も低かろう。だが、絶対ではない。


「それに今日は平気だったもん。お兄ちゃんに遊んでもらったから!」

 近所の大きな子が面倒見てくれたのだろうか? 礼をしなくてはいけない。

「どこのお兄ちゃん?」

「ん? 櫂お兄ちゃんだよ!」

「…………、え?」

 一瞬、何の事だか分からなくて呆ける。

「どうして分かんないのー? 櫂お兄ちゃんだよ? 写真の人!」

「で、でも……」

 娘は苛立ちを感じているようだ。しかし、櫂の行方はもう五年以上も分からないでいる。

「どこにいるの?」

「もう行っちゃったもん! ママにも『元気でね』ってー」

「そんな! 本当に櫂だったの?」


 つい疑ってしまうと礼依は膨れっ面になる。それでも渋々といったていで、首から下げた子供用スマホの操作を始める。安全を考えて持たせてある物だ。

 画像フォルダを開くと、目当ての物を見つけて向けてきた。そこには礼依と一緒に微笑む青年の姿が写っている。いくらか大人っぽい精悍な顔つきになっているが、それは間違いなく櫂だった。


「一緒に写真撮ったの。良いでしょー?」

「あああっ!」

 溢れてくる涙を抑えられない。

「ええっ!? ママ! どうして?」

「生きていた。生きていてくれた。元気だった。ああ、櫂……」

 スマホを抱き締めて号泣する母親に娘は心配そうに身を寄せて抱き付いた。涙が伝染したように彼女も泣き始める。

「ごめんね、ママ。ママが櫂お兄ちゃんにそんなに会いたかったなんて思わなかったの。礼依が一人占めしちゃってごめんなさい」

「ううん、ママこそごめんね。礼依が寂しそうにしていたから櫂が来てくれたのよね? ママが不甲斐ないから櫂に会っちゃダメなんだって神様が」

「そんな事ないよぅ! お兄ちゃんが忙しかっただけで、また会いに来てくれるはずだもん!」

 娘は弟に本当に懐いて信じ切っているようだ。

「そうね。祈っていましょうね。櫂に会えますようにって」

「うん、櫂お兄ちゃんはずっと見守ってくれるって言ったから大丈夫」


 湿っぽい空気を察したのか、また空也がぐずり始める。


 母と姉は慌てて子供用ベッドに駆け寄っていった。

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