隠剣の哄笑
「はっ……」
魔闘拳士が去っていく姿を第二皇子マークナードは眺めていた。
「はぁ ── はっはっはっはっはっ!」
冷や汗に塗れた顔に手を当てて、仰け反って笑う。
「そうだ! 分かったか、愚か者め! 貴様がどれだけ強かろうと我が帝国の巨大な力には敵する術など無いのだ! 初めからそうやって尻尾を巻いて逃げ出していれば良かったものを!」
見逃されたという意識は彼には無い。ほんの
ただ物量に圧されて逃げ去ったのだと思っている。それがあたかも自分の力であるかのように思って哄笑しているのである。
「だがな、魔闘拳士。この私を脅かそうとした罪は重いぞ? 世界のどこにあろうとも追ってやる! 捕らえて手足を切り取ってあの方の下へ送ってやろう! 覚えておれ!」
その瞳には昏い炎が燃え盛っている。
そこまでを確認した藍色の鉢金の間諜は、身を翻した。
◇ ◇ ◇
「そうか、兄者は命拾いしたか」
ディムザは鼻から一つ息を吐く。
そこに込められていたのが安堵なのか落胆なのかは誰にも分からない。
「どうなさいますか? 魔闘拳士にもう一押しさせますか?」
朱は壊滅した。しかし、同胞の死も彼らの心を動かす事はないようだった。
「いい。今回で懲りただろう。あれも、宮廷の連中も。そう易々とは手を出したりはすまい」
「捕らえる気は無いと?」
「いや、
同意を促すように背後に笑みを向ける。
「殿下のおっしゃる通りかと」
「急かすな。働き場所は作る。首座様への最高の貢ぎ物は包装に凝らなきゃいけない。そう伝えてくれるか?」
「承りました」
藍の姿は空気に溶ける。
「くっくっくっく……」
知らず笑いが漏れる。
(なんて倒し甲斐のある相手だ。あんな巨大な壁を超えられたら、世界制覇など児戯だぞ、児戯)
或る種の爽快感さえ感じられる。
(その前に働くだけ働いてもらわないといけないけどな)
ディムザの瞳には冷たい色が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
その報せは昼前になって入ってきた。ラドゥリウスの街門に多数の馬が逃げ帰ってきたとの報告。
衛士隊はその馬の出所を知っていた。
調査すべき事態なのだが、いかんせん彼らは行き先に心当たりがない。闇雲に捜索するのも骨が折れるし、状況を鑑みるに報告しない訳にもいかず、衛士隊は城門に人を走らせる。
その結果、帝国軍騎馬小隊が姿を現し、衛士隊には本件の委任を申し付けて出発していった。
にわかに忙しくなったのは昼下がりの事である。
駆け戻った騎馬小隊が、衛士隊の保有する輸送馬車の借用を要請し、魔法士隊を伴って再出発していった。
夕刻までには輜重隊の馬車も多数が街門を通り、そして戻ってくる。最初は治癒魔法士に付き添われた者が呻き声を上げつつ帰還する。胴体に大きな切り傷を負っている者や、四肢の一部を失っている者。次に、続々と遺体が載せられた馬車が血臭を伴って帰ってきた。
最初は魔獣の大軍でも発生したのかと気色ばんだ衛士隊だが、その受傷状況から戦闘が有ったのだと知る。彼らが何と戦ったのか話題にならない訳もなく、それは
「連中、やられちまったんだな」
一人が重い口を開く。
「でも、魔闘拳士は昨夜、城壁内に居たんじゃないのか?」
「そういう噂なんだが、どこまで確かなのかは分からん」
それは漏れ聞こえてきた噂に過ぎない。
「それが本当らしい」
「何だって?」
「友人の兵士が今朝、家に帰ってきた。しばらく養生するって話だ」
衛士の一人が切り出した話に皆が耳を傾ける。
聞くに、その城壁内詰めだった兵士は夜間の動員で大怪我を負ったと言う。
他の兵が上に折り重なって結果下肢を骨折したのだが、今は
ただ、彼の他には圧死した兵士が数名は出たのだと語った。
「やっぱり相手は魔闘拳士か?」
問いに衛士は頷く。
「ああ、本当は言いたくなさそうだったが問い詰めたら教えてくれた。これ、内緒だぞ」
「分かった分かった。だとしたら連中は誰にやられたって言うんだ?」
衛士達は顔を見合わせる。
(魔闘拳士。どれだけ神出鬼没なんだ?)
彼らの頭には同じ疑問が浮かんでいたが、それを口にするものはいない。
ただ、恐怖感だけが彼らの間を独り歩きし始めていた。
◇ ◇ ◇
第二皇子の私室から退出した諜報部の長は、力無く廊下を歩いている。先ほどまで叱責を受けていた。
それは単なる八つ当たりだ。街壁外の夜間戦闘の事まで彼の責が及ぶところではない。指揮はあの軍師に一任していたのだ。
ただ、その軍師本人も物言わぬ遺体になって帰ってきたとあっては、誰に押し付けようもなかった。
部下ももう数えるほどしか居ない。完全に手足をもぎ取られた状態である。なのに、現有戦力で魔闘拳士確保の次なる策を捻出するよう命じられる。今も未来も何か思い浮かぶ気はしなかった。
だから、それが起こった時に苦痛とは別に安堵が湧き上がってきたと感じてしまう。
(ああ、これでやっと解放される)
胸から突き出た光刃を目にして、意識は闇に落ちていった。
◇ ◇ ◇
「もう用はないぞ! 下がれ!」
再び扉が開閉した音に、椅子を横向きにして不貞腐れたように酒杯を傾ける第二皇子は、そちらを見もせずに言う。
「残念ながら、ご要望には応えられません。こちらには用があるのですよ?」
「貴様!」
聞き覚えがある声に、マークナードはグラスを放り出して立ち上がった。
そこには大振りで武骨なガントレットを両腕に装着した黒瞳の青年の姿。今夜は
「なぜここに……?」
食い縛った歯の間から漏らすように問い掛ける。
「昨夜はご挨拶に伺っただけです。今夜が本題ですよ?」
「何をほざく。あれだけ暴れておいて」
「死者は少なかったでしょう? 表に出せない人間を除いて、ね?」
片側の口角が上がると、酷薄な笑みが浮かぶ。
「な、何をしに来た?」
無言の圧力に、言葉が上手く出てこない。
「どうしてもお尋ねしたかったのです。なぜ、貴殿は無辜の民を犠牲にするような策を好むのです? 今回然り、ラムレキアの件然り。一つ間違えば多くの犠牲が出るよな方策ばかりです。何か恨みでもあるのですか?」
「使えるから使っているに決まっているではないか? 兵にせよ間者にせよ使えるようになるには時間が掛かる。だが、民草などその通り、放っておけば雑草のようにいくらでも生えてくるではないか? それくらい貴様にも分かろう?」
徐々に近付く彼を、言葉で押し留めるように畳み掛ける。しかし、それは逆効果だ。
「なるほど。良く分かりました」
「そうか! ならば私に付け! 金でも地位でも名誉でも、好きなだけくれてやる! 貴様ほどの男ならいくらでも……」
「分かったのは、貴殿が生きる価値のない人間だという事です」
差し上げた右手の銀爪が蝋燭の灯りで光る。
「では命をいただきます」
「や、止めろ ── !」
その叫びを聞いた者は誰も居なかった。
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