研がれる牙

 帰宅して、新しい道場を見つけてきた旨を母に伝えると、彼女は喜んでくれた。武道場にも横の繋がりが有るだろう。このまま櫂がどこにも行けずに終わる事を危惧していたらしい。これでちゃんと諏訪田に月謝が払える。彼の善意にこちらの誠意として対価が必要だと櫂は思っていた。

 その後に居間のPCで諏訪田剛人の事を調べてみる。彼の実績と武勇伝は櫂を楽しませる。かなり痛快な人物だと思った。彼の新たな師匠は敬意に値する人のようだ。


「あんた、まだ格闘技をやるの?」

 胴着を洗い直していたら礼美が声を掛けてきた。

「うん、また家に居る時間が少なくなるんだ。ごめん」

「そんなの別に良いけど。どうせまた虐められるんじゃないの、ヘタレなんだから」

「たぶん大丈夫だよ。心配かけてごめんね」

「そんなんじゃないわよ。余所で恥を晒されるのが嫌なだけ」


 フンと鼻を鳴らして去っていく姉は可愛らしいと櫂は思う。

 父も母も礼美も拓己も彼は守りたい。その為の力は諏訪田師匠がくれるだろう。


 後は櫂の努力次第だ。


   ◇      ◇      ◇


 諏訪田の教えは厳しかった。少しでも気を抜いていたら容赦無く拳が身体に突き刺さる。それも十分に加減されている物なのだが、痛みは本物だ。それで躊躇していれば次の拳が間違いなくやってくる。痛みを振り払って視線を上げ、突き掛かっていく。


「しんどいか?」

「痛いです。でも痛くないと次の痛みが解らなくなります。これで良いんだと思います」

「足掻け足掻け。その内、お前に痛みを感じさせられる奴が少なくなってくる。お前の目標はその先だろう?」

「そうです。だから今は痛みをください」

 傍目には変態的な会話に思えるが、本人達は真剣そのものだ。


 今はまだ、道場内にも櫂に勝る使い手は居る。特に薙刀を上手に使われると、徒手では抗しようがなかったりする。そんな時は相手に薙刀の使い方を教授してもらったりもする。それで彼らの攻め手を理解して付け入るところを模索するのだ。

 それは相手にも解ってはいるが、教えないようなケチな事はしない。彼らとてその合間に徒手の手口を研究して対してくるのだ。お互いが実験台なのである。


 そうして秋を迎えた頃には、道場内に櫂に勝てる者はほぼ居なくなっていた。


   ◇      ◇      ◇


 それでもまだ諏訪田には身体中に青痣の刻印を貰う日々は続いているのだが、彼が良く知るその青痣を違う場所で見かけるのは只事ではない。


「拓己くん、それはどうしたの?」

 櫂が青痣を確認したのは拓己の口元だ。

「うん、友達とふざけ合ってたらちょっと手が当たっちゃってね」

「本当?」

 ちょっと手が当たったら出来るような青痣ではない。それは櫂も良く知っている殴られた跡だ。

「ほんとだよ。もう中学生なんだから子供みたいにふざけてちゃいけないね」

 そんな事を言って拓己は誤魔化そうとする。一つの可能性が櫂の脳裏に浮かぶが、深入りすべき問題なのかどうかを躊躇ってしまう。

 拓己には拓己の柱がある。それをなおざりにして自分のやり方を通そうとすれば、彼の矜持を傷付けてしまうのではないかと危惧してしまう。拓己の方法で戦っているのなら、それは見守っているべきだ。もし、彼が櫂の救援を必要だと言ってくれたら、その時は堂々と彼の前で戦おう。それが櫂が彼の傍らに居る時の在り方だ。そんな風に櫂は思っていた。


「もし、僕が必要ならいつでも言ってね。僕は絶対に君の味方だよ。どんな時でも君の意思の為に動くから、必ず呼んでね?」

「うん、ありがとう。櫂くんが居れば僕も心強いよ。大丈夫、僕も自分がやりたい事をちゃんと解っているから」

 拓己は櫂が薄々察しているのを感じる。でも、自分の問題は自分で解決したい。そう考えるのには理由が有った。


 幼い頃から傍らには櫂が居た。

 彼の正義感は本物で、それについて実によく考えているのが解る。そしてそれを実践する勇気と力と覚悟を持っている。

 そんな櫂が拓己には眩しかった。憧れに近い思いもあった。だが彼みたいになりたいかと問われれば答えは否だ。

 櫂の信念は大波のようだと思う。一度押し寄せれば全てを薙ぎ払ってしまう。それが過ぎれば必ず反動がやって来る。彼に反発心を抱く者が現れるのは確実だ。だから誰かが弱めなければならない。なら自分が防波堤になれないだろうか?

 櫂にずっと平和と調和の大事さを説き聞かせ、大波の発生を少なく弱くさせる者になりたい。拓己が彼の傍らに居たいと願うなら、そう在らねばならないと思った。

 その為には拓己にも強い信念はしらが必要だ。対するというのなら、それが無いと櫂に失礼だ。ならば貫こうと彼は決意する。


 そうして育んできた拓己の中の信念が今は試しの時を迎えているのだ。この程度の小波を乗り越える事が出来ないのなら、櫂の大波になど抗する術は無い。

 あの眩しい場所に行きたいと望むなら、自分を強く持て。その先に道がある。


 そう思って拓己は自分を奮い立たせていた。


   ◇      ◇      ◇


 諏訪田の拳が掠め去る。深く沈んだ櫂の後ろ髪だけがその圧力を感じている。ここで怖れれば勝負はすぐに終わってしまう。

(強く踏み込め! 視線を上げろ!)

 見返すと諏訪田の強い視線とぶつかり合う。ニヤリと笑う顔が拳と共に迫って来る。その下の腹に左拳を打ち込む。

(振り抜け! 道場の壁まで届く勢いで!)

 そこには腹筋という強靭な壁がある。当たった拳が痛いほどの壁だ。でもそこで止まってはいけない。捻りを入れて仮想の拳だけでも向こうまで貫くように、衝撃を相手の身体に送り込む。

「げはっ!」

 諏訪田が声を上げた。その瞬間に櫂は少し喜んで油断してしまう。

 落ちてきたのは諏訪田が両手を組んで固めた岩石の様な一撃だ。背中にそれを受けた彼はそのまま圧し潰される。意識が有ったのはそこまでだった。


 目が覚めたら道場の隅に寝かされていた。口の中に鉄の味がする。潰された時に切ったのだろう。

 こんな事は良くある。血反吐を吐く事だって少なくない。それでも顔に痣が残る様な事は稀にしかないし、歯だって全部残っている。諏訪田は絶妙な加減をしてくれているのだ。それに感謝する事は有れ、恨む事は絶対に無い。


「おう、どうだ?」

「叩きのめした相手に言う台詞ですか?」

 最近はこんな軽口も投げ掛けられる間柄になってきた。最初はつい口から漏れ出たものだったのだが、諏訪田がそれを楽しんでいるようなので常態化しつつある。

「そう言うな。これ、見てみろよ」

「師匠の裸なんて見たくないです」

 胴着の上を捲り上げる諏訪田に軽口を重ねて上体を起こして見ると、腹筋の真ん中に真っ赤な拳の跡がある。

「こんなの食らったのは久しぶりだぜ」

「ちょっと赤くなってるだけじゃないですか?」

「これが明日になったら痣になってんだよ。年寄りは反応が出るのが遅いんだ」

 それが櫂の成長の証であると言ってくれる諏訪田の言葉が嬉しかった。


 陽光が初夏の面持ちを見せ始めた時期の登校は心地よいと思う。まだ朝方は涼しい空気が残っているからだ。春に中学二年に上がってから数か月。鍛錬がてら走っての登校が辛くなってくるのはもう少し先になるだろう。その頃には着替えを持って出なければいけないと櫂は思う。

 授業は真面目に受ける。放課後は道場に行くから勉強の時間が取れないからだ。道場から帰って夕食と入浴の後は宿題を片付けるので精一杯だ。それ以上は目蓋が耐えてくれない。

 基本的にはそんな毎日を送っていた櫂だがその日は違った。五時間目になって教室の扉を叩いた学年主任が告げてくる。


「流堂君、すぐに家に帰りなさい。親類に不幸が有ったそうだ」

 走りに走って家に着くと母親が縋り付いてきた。


「拓己くんが……、拓己くんが、亡くなったって……」

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