彼女の幸福
ガツンと釣り竿ごと引き込まれそうになる。カイが腰に抱きついてギリギリ止めてくれた。
「離さないで! 竿を立てて!」
(重い!! なんてもんじゃない!?)
何とか引き寄せた釣り竿をグッと握って立てるが、それでも身体を持っていかれそうだ。チャムは水中で踏ん張りの利かない足に力を込めて抵抗する。
「一度、竿を預かるからね」
「嫌よ!! この魚は私が釣り上げるの! 渡さないから!」
「違う違う。そのままじゃ糸の摩擦で火傷しちゃうから、これを」
取り出した薄手の皮手袋を差し出してくれる。
「あ! ごめんなさい…」
「全然問題無いよ。最初の大物は興奮するよね?」
後ろから伸びた手に一度竿を託して、彼の懐の中で素早く皮手袋を着ける。
「ありがと。どうすればいいのかしら?」
「今は糸が出ていくのは仕方ないから。このまま泳がせて弱るのを待とうか」
確かに糸巻きのハンドルがグルグル逆転して、糸を吐き出していっている。
「良く魚の動きを見て…」
カイ曰く、魚が向こうに泳いでいっている時は竿を立て、左に走ろうとすれば右に、右に走ろうとすれば左に竿を寝かせれば良いそうだ。つまり掛かった魚の頭を逆に向けようと力を加えれば弱らせる事が出来るらしい。
チャムは教えに従って竿を操作し始める。糸巻きに手を添えてブレーキを掛けて、糸を出す量も少しずつ減らしていく。魚との格闘を続け、糸を出さなくて済むくらいになった頃には、トゥリオとフィノも応援に来ている。
「頑張ってください!」
「大物なんだな? しくじるなよ、チャム!」
「…やってやるわよ!」
鍛錬を重ねてスタミナも男顔負けな筈の彼女でも息が切れてきている。身体こそカイが支えているが、釣り竿を支えるだけでも相当消耗しているらしい。
「落ち着いて。ゆっくりで良いからね。辛くなったら僕の腕に竿を預けてもいいよ」
「うん」
竿尻をお腹に当て、差し出された彼の左腕に預けて両手を放してブラブラさせ、痺れを抜く努力をする。
何度もそんな事を繰り返していると、徐々に魚の引く力が弱まってきたように感じた。
「もう少し寄せたら僕が掴み取るから踏ん張るんだよ」
(ここまで来たんだから釣り上げたい!)
しかし、彼女の腕も限界が近付いている。息は荒く、喋るのも儘ならない。筋肉が痙攣して感覚が失せている。ここで魚が暴れ出したら、もう耐えられない気がしてきた。
左にゆらりと逃げようとする魚体に竿を右に寝かせた瞬間、急に右側に反転して一気に逃げ出そうとする魚。
(ダメ!腕がもたない!)
チャムは歯噛みして覚悟をしたのだが、一瞬にして飛び出したカイが咄嗟に口の中に手を差し込んで握り捕る。ザバリと吊り上げられた魚体は
「ぃやった ──── !!」
握力の限界が来て釣り竿を取り落としたチャムだったが、両腕を挙げて喜びを露わにする。
川の中にも関わらず、苦しさと歓喜が入り混じった表情で力が抜けた様にぺたりと座り込んでしまう。濡れるのも構わず水面を両手でバチャバチャと叩き、達成感を噛み締めていた。
(これは間違いなくハマったな)
そうカイは思った。
(言うなればこれは、
◇ ◇ ◇
岸に上がって衣服を魔法で乾かしてもらったチャムは大の字に寝転んで空を見上げていた。
川の中ではフィノの竿に魚が掛かったのかきゃいきゃいと騒ぐ声が聞こえる。
痺れの抜けてきた腕の鈍い痛みと倦怠感が逆に心地良い。
何よりあの背筋を駆け上がるゾクゾクとした感覚が忘れられない。
(まだ大丈夫。私の中にもこれだけのものが残っている)
それは彼女にとってとてもとても大切なものだ。
◇ ◇ ◇
「トゥリオ-! フィノ-! 一服しようよー!」
カイが彼らを呼び寄せている。
「チャムもおいで。味見するでしょ」
「味見!」
ガバッと跳ね起きて彼のもとに駆け寄った。このくらいの時間になるといつ
「お茶は沸いてるから各自でね」
「おう」
「はい。すみません、夢中になっちゃって」
皆にお茶を配り始めるフィノの横では、チャムは皿の上から目を離せないでいる。
「川魚の身は淡泊だから魚醤一択かなぁ?」
「食べてもいい?」
「どうぞ」
最高に新鮮なその刺身はプリプリとして程良い噛み応えが有って口内を楽しませてくれる。
「美味 ── い! 甘 ── い!」
「美味しいですね。意外ですぅ」
「当然よ! 私が釣った魚だもの」
初めての魚の生食に腰が引けていたフィノだったが、皆が躊躇いもなくフォークを伸ばす様に堪らず自分も手を伸ばして顔を綻ばせる。
「案外、脂がのってるね。これなら塩でも十分かも」
「当然よ! 私が釣った魚だもの」
カイは大型魚の割に大味で無いのに驚いている。
「この歯応えが良いな。コリコリして食ってるって感じがするぜ」
「当然よ! 私が釣った魚だもの」
川魚の身の締まりがトゥリオには好評だったようだ。
チャムの強い押しを証明するような味で応えてくれる巨魚。
「この感じだと煮崩れしちゃうかもね。今夜は焼いたほうが良さそう」
「当然よ! 私が…」
「「いや、それはもう良いから!」」
休憩している内に豪雨が通過し、釣りを再開する。
「増水しそうだから水に入っちゃダメだよ。濁りが強くなったから岸からでも釣れる筈だし」
「解ったわ」
皆が慣れてきたようでそれなりに遠投できるようになり、順調に釣果が上がって来る。一部は
こういう時にカイは苦々しい思いをするのだ。本来なら自家製魚醤作りまで手が出せそうなものなのに、仕込んだところで時間経過の無い『倉庫』では発酵が進まない。
冷暗所保管が必要な発酵食品をセネル鳥の背に括り付ける訳にもいかず、そういうものには手が出せないでいる。彼的には味噌作りとかも本気でやってみたいのだが、旅暮らしと天秤に掛けねばならない発酵食品作りは活路が見出せない。
せめてもの旨味凝縮に足掻くべく、干物魚作りに精を出すのが今の限界。
夕方までの天日干しで、半干し魚が出来上がり回収しておく。
次は夜メニュー作りに移る。大き目に切り分けた巨魚の身に塩と香辛料を振りかけて味を馴染ませておく。深鍋にしっかりとした量のバターを溶かし入れ熱すると、仕込んだ切り身に小麦粉をまぶして入れてムニエル風にする。
熱したバターを匙を使って何度も切り身に掛けていると、得も言われぬ香りが周囲に漂い始めて、皆の食欲を強く刺激する。こうなると皆の連携はバッチリだ。手分けしてテキパキと食事の準備は進んでいった。
一言で言って絶品だった。皆が満足気にお腹をさすり、再び並んだ刺身やムニエル風揚げ魚の味を褒め称えて、今後のメニューに加えるべくより多くの魚の確保を進言する。それには何一つ異論は出ず決定事項になったのだが、その後に一つだけ問題が出た。
チャムが傍らに置いて離さず、恋する乙女の様な目で眺めている釣り竿を捧げ持って言う。
「カイ、お願いだから、これ頂戴」
「ダメ」
予想外に即答で却下された彼女は驚愕の表情を浮かべるのだった。
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