絶頂のサイハテ
上杉しずく
第1話
性的な欲求は、自分にとっては生殖に関する本能でしかない、と知った32歳冬。
優しく、でも相手に罪悪感を抱かせないくらいの悪意は持ち合わせ、ほどほどに働き、酒もタバコも女も嗜まない、理想的な夫のんちゃんに、欲情しなくなってしまったのです。
夫に、といえば語弊があります。世界中のどんなセクシーな男性(例えば、彼氏にしたい男性有名人ランキングに入るダンサー軍団)にも、最高ハグ以上無理!という状況になってしまいました〜。
のんちゃんに対しては、親友や戦友のような気持ちを持っていたので、何とかのんちゃんの夜のお誘いに応えようとしましたが、なぜか努力すればするほど、辛くなったり頭痛がしたり時には吐き気まで催すようになりました。夫婦円満の秘訣はスキンシップ、などと言いますが、のんちゃんにとってはそうかもしれませんが、私はむしろ身体が触れ合わない方がのんちゃんへの愛情が増しました。身体の密着を求められれば求められる程、触れ合えば触れ合うほどに愛情が薄れてしまいそうで、愛着の炎が消えないよう必死に息を潜めていました。
のんちゃんはのんちゃんで気を使ってくれましたが、私が応えられないことによるイライラや、それによる家事放棄(のんちゃんは洗濯物担当だったのですが、私の性欲の抑制と共に洗濯物が貯まるようになりました。)がたび重なっていきました。そんな時、向上心のない、一生ヒラで行こうと決心しているしがない介護福祉士の私、(えびちゃんと呼んで)は、
「うちは母子家庭。家賃を払ってくれるおじさん(のんちゃん)がいる母子家庭。」と思い込むことで乗り切る作戦に出、それはまあまあの成果をあげました。
世の夫婦は、危機をどうやって脱しているのかと夜な夜なインターネットで検索しましたが、ヒットするのは主に「相手に拒否される辛さ」。のんちゃんの立場が主でした。「夫に求められるだけ贅沢だ」だとか、「夫の要求に応えるのが妻の役目」のような、言葉が散り散りになった破片になって胸に刺さり、解決策ものんちゃん側に対するアプローチはなく、「こうしたら自然に性欲復活しました」という体験談ばかりで、それはそれで役に立つ情報であるはずなのですが、その時の私には受け入れられず、対処を模索することさえ億劫になってしまいました。性欲がないことは私個人にとってはとても快適で、人生で初めて修行するお坊さんの気持ちが理解できたような気分になりました。あくまで気分だけですが。のんちゃんの期待には応えたいけれど、制欲復活はしたくない。アンビバレンツな私に自分でも手を焼いていました。
夜の生活は、なんとかかんとかやっとこさ、のんちゃんの要求の3分の1程度は応えていた私ですが、答えていたという表現は失礼すぎるほど、「物」になることに徹し、のんちゃんはのんちゃんで申し訳なさそうに、「今日、貸してくれる?」とホッチキスか何かのように私の身体を「借りて」きちんと返却していました。
そんないわゆる「冷え切った」私たちですが、のんちゃんは外で浮気をするでもなく、スマートフォンを使ったゲームにストレスをぶつけ、家にいるときも、家族で外出中もスマホとばかり向き合うようになりました。ゲームやSNSに夢中になり、子どもに関心を向けなくなることを「サイレントネグレクト」と呼ぶようですが、その時ののんちゃんは、まさにそれそのものでした。
いっそのこと、外で隠れて浮気してほしいと本気で思いました。しかし私はそれを口に出すことはしませんでした。インターネットの情報によると、セックスレスカップルで求める側が「言われて辛い言葉」の中にに、「外で済ませてほしい」が入っていたからです。
私はそもそもは、のんちゃんとくっつくのが大大大すきでした。ザ・オヤジ臭な脇の下も、犬を彷彿させる口の匂いも、なぜか落ち着く匂いに感じていたのです。腕枕をしては脇をクンクンして眠りに落ちたものです。
その匂いを、一般的な解釈通り「悪臭」と認知するようになり始めたのは、たらちゃんが私のお腹に住むようになってからです。
妊娠とともになんとなく「のんちゃん臭い?」と思い始め、初めは疑問符がついていたのですが、出産直後、「産んでくれてありがとう!!!!!」と抱きつかれた時に夫の臭さに思わず息を止めてしまいました。妊娠から出産にかけて、匂いに敏感になるとは先輩ママさん方から散々聞かされましたが、想像を遥かに超えた嗅覚の変化です。
のんちゃんは
「匂いが苦手になったって、、えびちゃん僕のこと嫌いになったってことじゃない?」と悲しさを隠して冗談っぽく言うのですが、
好きだとか嫌いだとか、そんなに簡単なことではありません。
人として、のんちゃんは私にはかけがえのない人です。私には勿体無い、素敵な夫です。でも、私にとっての愛情の表現の最上級がハグで、それ以上は身体的に限界に、苦痛になってしまったのです。
苦痛なことを遠慮がちにでも何度も求められるうちに、しんどさと、応えられないもどかしさと、のんちゃんに対する申し訳なさが積もり積もって、わけのわからない大きな塊となりました。だんだん、私が思い切ってのんちゃんを突き放した方が、今後の彼の人生はしあわせなのではないか、と思うようにもなってきていました。のんちゃんはとても素敵なひとなのです。そして、優しすぎて自分から私を捨てることなんて出来ない人であることも知っていました。
ある時、「私1人でもつつましく暮らせば、金銭的にはタラちゃんを育てられるなあ。」と計算機をはじき出したところから、離婚にいたりました。自分に都合の良い解釈かもしれませんが、お互いのために、良い選択だと素直に思えたのです。私は初めてのんちゃんが泣くのをみました。離婚の提案をした時、部屋の隅に私とたらちゃんに背を向けて、元サッカー部なのに、ラグビー経験者と間違われる広い背中が静かに揺れていました。あの強い肩に抱きしめてもらいたくなる日が来る、そんな気持ちもしましたが、30代なのに下半身がおばあちゃん化してしまった私と余生を共にさせるのは、健康的な男性の典型のんちゃんには不幸すぎると、意思を強く持ち直しました。
大切なのんちゃんを傷つけてまで離婚したのだから、これからは、尼のように、男性と過度に交わることなく、穏やかに生きていこう、
そう決めてしまうと、身体がふわっと軽くなった気がしました。
性欲がないって、なんて自由なんだろう!!!!!
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