第71話 横濱開港祭.4
風花は「んー」と組んだ両手を伸ばした。体の力が抜けていく。
天井から水滴が一つ落ちて、床のタイルにぶつかり弾けた。
心地よい温かさと、立ち昇る湯気。
そう、学院が終わり早々に帰宅した風花は――――風呂に入っていた。
機関による裏中華街進攻まで、いよいよあと二日。
そして明後日は、開港祭の最終日だ。
二つを同日にぶつけたのは、警備の敷かれた状態を維持するためだろう。
魔法機関は、魔法都市の各地を警戒態勢にしたまま、夜の内に一気に裏中華街を落とすつもりなのだ。
最終日の夜は間違いなく、これまで最大の勝負どころになる。
それは『風花』の汚名を返上するための、大事な戦い。
一人湯船に浸かって目を閉じると、自然と思考は『そのこと』に向いてしまう。
まつりの祖父は、名を風花竜介という。
竜介は天才ではなかったが、無類の活躍を見せた優秀な機関員だった。
そんな有能な魔術士のそばで、幼いまつりは夢中で魔術の練習を続けた。中でも竜介と共に一番練習を重ねた念動力は、固有進化にまでたどり着くほど成長した。
「……あはは」
うっかりここで、苦笑いをこぼしてしまう。
それからのことは、今思い出しても恥ずかしい。
中でも完全に男子機関員になりきっていた十二歳からの三年間は、今からでも過去に戻って「おねがいだから男子制服を来て歩きまわるのはやめて!」と自分をしかってやりたい。
そして風花まつりは、念願の魔法機関員となる。
その矢先の事だった。竜介が機関を追放されたのは。
だがそんなこと、今でも信じていない。
竜介はいつだって「困っている人がいるなら助けるのが機関員だ」と言っていた。
……不正なんて、するはずがない。
「だから、わたしが真実を突き止めるんだ」
風花は、ほおをパンと叩いて気合を入れる。
そのためにはまず、現状を打破する必要がある。
機関には完全に冷遇、いや、いない者として扱われている。
なんとしても、機関員として復帰しなくてはならない。
必要なのは、汚名を払しょくできるほどの大きな手柄だ。
そして今、この魔法都市横濱は未曽有の脅威を抱えている。
連続して起きた騒動と、その背後に控える悪の吸血鬼。
もしも逮捕することができたなら、これ以上の功績はないだろう。
「だから次こそは、わたしもちゃんと戦えるように」
思い出すのは、吸血鬼が異種や魔術士を使って翔馬を狙い打ちにしてきた、最初の騒動。
足止めをしにきた大神玲との戦いには、どうにか勝利した。
しかし風花は、翔馬のところにたどり着くことはできなかった。
あの場においては、玲の方が一枚上手だったのだ。
あの時は翔馬が吸血鬼を相手に奇跡の逆転を果たしたことで、なんとか窮地を乗り切ることができた。
だが本来、あの場には自分もいなければならなかったのだ。
「……翔馬くんには、先行かれちゃったな」
大さん橋で吸血鬼を追い返しただけでなく、裏中華街ではアリーシャを守るために機関員まで倒してみせた翔馬。もうその強さは本物だろう。
「助けるどころか、わたしの方が頼っちゃってるし……」
やはり、事件を求めて魔法都市内を歩き回っていた時とは全然違う。
吸血鬼逮捕という目標。封印の解除犯とそれを知っていて見逃す機関員という関係。
九条翔馬という共犯者は、風花に進むべき道を示してくれた。
「それに……」
そしてやはり、思い出してしまう。あの時のことを。
それは翔馬が、吸血鬼の提案を突っぱねた時のことだ。
風花を裏切り膨大な魔力を得るか、勝ち目のない吸血鬼との戦いを取るか。
魔術士には悩むべくもない、簡単な選択だった。
「…………断る」
そう、口にしてみる。
この言葉に、風花は今でも支えられている。
あの場にたどり着くことのできなかった自分を、それでも翔馬は選んでくれた。
これ以上、信頼に足る理由があるだろうか。
いつだって前向き。
でもやっぱり風花にとってなにより大事なのは、翔馬の姿勢だ。
そのおかげで今も「一緒にがんばろう」と、恐れずに思える。
風花は、湯船の中でヒザを抱える。
「……失敗しちゃったかな」
そして「はあ」と、悩ましげにため息をつく。
先日学院で初めて知った事実。アリーシャとのこと。
田中たちは大げさに話してたが、やはり翔馬とアリーシャの距離は近づいてると思う。
それに、そのあと翔馬を訪ねてきたクラリスにも皆大騒ぎだった。
「恥ずかしがらずに、『まつり』って呼んでもらえばよかったかも」
目を閉じて、想像してみる。
学院、放課後、教室。翔馬はそっと目線を下ろし、優しい声で――。
『――――まつり』
「や、やっぱりダメだあーっ、恥ずかしい!」
自分で口にして、すぐにこらえられなくなってしまう。
「これはまだ先送りだね、うん」
風花は一通り足をバシャバシャさせると、そう結論付けて立ち上がる。
そして、小さく息をついた。
「今度は、わたしが信頼に応えないと」
そう言ってもう一度自分でほおを叩いてから、風花は浴室のドアを開けるのだった。
◆
『二人』は、そのままその場に硬直した。
バザーから帰り、ちょうど手を洗いに洗面所兼脱衣所にやってきたところだった翔馬は、見事に裸の風花と鉢合わせてしまった。
驚きにハッとお互い息を飲み、時間が止まる。
……ヤバい。
翔馬は即座に状況を把握した。
前回の時は、間髪入れずに魔術で吹き飛ばされた。
間違いない! このままだとあの時の二の舞いだッ!
なんとか、なんとかしないとッ!!
しかしここで風花の黒髪からポツリと落ちた水滴が弾け、止まっていた時間が動き出す。
「きゃああああああああああ――――――――ッ!!」
上がる大きな悲鳴。
「あっ、ごっ、ごめんなさい――――っ!」
慌ただしく閉まる浴室のドア。
「あのっ、これは、その、違くてっ!」
始まる必死の弁解。静まる浴室――――そして。
「…………あれ?」
怒涛の展開。そのおかしな点に、慌てて弁解していた風花が気づく。
「どうして翔馬くんが悲鳴を上げたのっ!?」
「えっ?」
『風爆(ウィンドブラスト)』への恐怖によって上げた悲鳴によって、なんと翔馬はまさかの逆転を果たしていた。
しかしここで、再度の硬直。
それはあまりに予想外の出来事だった。
なぜ翔馬の方が悲鳴を上げたのかというツッコミと共に、風花は勢いに任せてもう一度ドアを開けていた。しかもさらに二歩ほど踏み出す形で。
再び訪れる静寂。
「きゃああああああああああ――――――――ッ!!」
上がる二度目の悲鳴。
「だからどうして翔馬くんがっ! 納得いかないよっ…………あっ」
そこまで言ったところで風花、そもそも自分が裸なことをもう一度思い出す。
「わ、わ、わ、わ、わっ」
慌てた風花は、目の前に合ったバスタオルに手を伸ばす。
折りたたまれていたバスタオルを大急ぎで開くも、案の定の横長状態。
そうなれば当然、縦の長さがものすごく心もとない。
とは言え、この場でうまいことタオルを九十度回転させられる自信もない。
いよいよ慌て始めた風花は、進むか戻るか迷わせた足を半端な形で下ろし、自らの身体から落ちた水滴によってできた小さな水たまりにすべってバランスを崩した。
「なっ、風花っ!?」
そしてそれを受け止めようとした翔馬ごと、そのまま押し倒してしまう。
風花が床に手を突いて頭を上げると、髪から翔馬の胸元にポタポタと水滴がこぼれた。
翔馬は大慌てで顔を横へ背け、強く目を閉じる。
すると風花はそんな翔馬を見て、なぜか不意に動きを止めた。
ポタ、ポタと、水滴は落ち続ける。
こんな状況だというのに風花は、じっと翔馬を見つめていた。
必死に目を閉じる翔馬を。
「ねえ……翔馬くんは」
「な、なにっ?」
突然かけられた声に、翔馬は動揺しながら応える。
「…………きょうみ……ない?」
「は、はいッ!? ななななかったらこんな風にしないだろっ!」
まさかの問いに翔馬は叫ぶ。しかし風花は止まらない。
「髪、金色じゃなくても?」
「か、髪? 髪になんの関係があるんだよっ!?」
翔馬がたずねると、風花は持ち込んでいたスマホを取り出して、そのページを提示した。
「ここ、読んで」
「お、俺のウィキ? え、ええと、開港祭で金髪美女のスカートをめくり放題……」
「どういうことなのかなー」
「なんであの玉突き事故がこんな記事になるんだよ! 違うんだ! 信じてくれっ!」
「それなのにわたしの時はすぐに悲鳴を上げてさ」
「悲鳴はそこそこいつも上げてるよ! さっきのは前回の風爆を思い出してビビっただけだって!」
必死に弁明する翔馬。その姿を見て風花は、どこか安心した。
「……そっか」
風花は身体を起こし、ぺたりとその場に座り込む。
翔馬が恐る恐る視線を上げると、胸元でタオルを巻いた状態の風花がいた。
思ったよりも細い肩、しっとりと濡れた肌に、思わず目をとられてしまう。
あらためて確認するまでもない。風花は可愛いよ、間違いない。
するとそんな翔馬の視線に気づいた風花は、タオルを抱きしめた格好のまま――。
「気に……なる?」
そう言ってかすかに首を傾げた。
「ひ、悲鳴をあげたのは悪かったから、もう許してください!!」
顔を赤くしたまま懇願する翔馬。
その必死な姿に、風花は先日の学院でのことを思い出す。
クラリスから逃げるために、隠し通路をひた走った先に見つけたクローゼット。その中でぴったり抱き合う形になった時のことだ。
確かその時も、翔馬はかなり恥ずかしそうにしていた。
「そっか、翔馬くんの弱点だもんね」
風花はなぜかちょっとだけうれしそうに言う。そして。
「明日は少し、時間があるんだ」
不意にそんなことを口にした。
「……時間?」
「一緒に開港祭に行ってくれたら、許してあげちゃおうかな」
そして得意げな笑みと共に、翔馬へと視線を向ける。
「わ、分かりました! どこにでも行かせていただきます!」
「本当?」
パッと表情を輝かせる風花。
ようやく身体を起こした翔馬は、大きく一つ息をつく。
「……でも、やっぱりそれは自爆技だよ」
そう言われて風花は、その手をほおに当ててみる。
なるほど、きっと翔馬に負けないくらい熱くなっているのだった。
「とにかく風邪引かないように早く身体を拭いた方がいい。俺は出ていくから」
そう言って翔馬はなんとか立ち上がると、脱衣所を出ようと歩き出す。
しかし今日の風花は、これでもまだ留まることを知らなかった。
「あっ、待って翔馬くん」
「な、なに?」
「部屋着なんだけどね、うっかり持ってくるのを忘れちゃったんだよ」
脱衣所を出ようとする翔馬に、タオルを巻き直した風花はさらに「それでね」と続ける。
ちなみに、着替えもタオルと同じ場所に思いっきり用意できていた。
「翔馬くんのシャツ……貸してほしいんだ」
しかし翔馬には、そんなことを確認する余裕などない。
「そういうことなら何か取ってくるよ」
「ううん、そうじゃなくてね……今、翔馬くんが着てるのでいいよ」
「そう……なの?」
「そういうのって、恋人っぽいでしょ?」
「わ、分かった」
翔馬は言われた通りにシャツを脱ぎ、振り返らないようにしながら風花へと手渡す。
「……ありがと」
すると風花はそう言って、受け取ったばかりのシャツに腕を通した。
「それじゃ俺、自分の着る物を取りに行ってくるから」
そう言って翔馬は部屋へと戻っていく。
一方の風花は下着を履き、タオルで髪を拭きながらリビングへ。
翔馬のシャツを着た状態でくるんと一度回転すると、自分を抱きしめてみる。
「……えへへ」
そしてリビングのソファに腰を下ろし、まだほんのりと赤い顔をパタパタと両手であおいでいると、すぐにリビングに翔馬がやってきた。
「お待たせ」
――ぴっちぴちのシャツを、無理やり着た状態で。
「なんで翔馬くんがわたしのシャツを着てるのっ!?」
「……恋人っぽいってこういうことじゃないの?」
「そんなわけないでしょーっ!!」
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