第62話 今宵世界で一番美しい
「たっだいまー」
「なんだその荷物は」
両手に大量の荷物を抱えて隠れ家へと帰ってきたメアリーを見て、玲は驚きの声を上げる。
「ぜーんぶ洋服だよっ」
賭けは翔馬に張ったメアリーの、完全な一人勝ちだった。
さらに名も無き学院生にすぎない翔馬が機関員を倒したことで場は盛り上がり、支払いも気前よく行われた。文句なしの大勝だった。
「メアリー、負ける勝負は大っっっっ嫌いなんだけどぉ……」
イタズラな笑顔と共に決めるウィンクが、星を散らす。
「勝てるって分かってる勝負は大好きなのっ」
レオンが強敵な強さを誇るという情報は聞いていた。
とは言え相手は、あの伝説の吸血鬼をたった一人で退けた九条翔馬だ。
「そんな九条くんが、負けるわけないもんねぇ」
にひひ、と笑ってメアリーは両肩にかけた荷物を下ろす。すると今度は。
「やっと帰って来られたわ……」
見るからにフラフラのアリーシャが、隠れ家へと転がり込んできた。
「アリーシャ様、どうされたのですか!?」
「今朝、ここを出たところで機関員に捕まったのよ……」
「機関員に!? 大丈夫なのですか!?」
「なんとかね。なんか外国から来た転校生に、横浜の各地にある進入禁止区域やルールを教える必要があるって。新垣……友とか言う機関員が派遣されてきて」
アリーシャはぐったりとした様子で息をつく。
「機関員から逃げ出せば目をつけられるし、怪しまれないためにも最後まで付き合うことにしたんだけど……。連絡が来るまで帰すなって言われてたみたいで、もう嫌ってほど歩き回されたわ」
「それでこんな時間に」
「そーいうことだったのかぁ」
するとアリーシャの話を聞いたメアリーが「なるほど」と愛らしく手を打った。
「そういうことって、なにがよ」
「アリーシャちゃん、髪の毛ツンツンで目つきの怖ぁい機関員に覚えがあるでしょ?」
その特徴を聞いたアリーシャは、すぐにレオンのことを思い出した。
「あるんだね? で、その機関員と九条くんとの間にぃ、なにかがあったんじゃないかな」
「……どういうこと?」
「九条くん、さっきまでその機関員と裏中華街で戦ってたんだよ」
「……え?」
「カッコ良かったよぉ。『アリーシャちゃんを返せー』って」
「まさか。あの新垣っていう機関員が私を連れ回していたのは……っ」
「うん、体よく人質にされてたってことだろうねっ」
アリーシャは思い出す。中華街で騒ぎがあった日にレオンと翔馬がにらみ合っていたこと、そして一触即発状態だったことを。
「それで、それで九条はどうなったの!?」
「快勝だったよっ。多分そのあとに取り巻きの機関員が狼煙みたいなのを打ち上げたのが、アリーシャちゃんの開放を指示する合図だったんじゃないかなぁ」
翔馬の勝利を知って、アリーシャは息をつく。
するとそんな姿を見てメアリーは、『ここが一つの勝負どころ』だと判断して笑みを浮かべる。
「そのあと九条くん、すぐにどこかへ行っちゃったんだけどぉ……あれって、アリーシャちゃんを探しに行ったんじゃないかなぁ」
驚くアリーシャ。メアリーはさらにもう一つダメ押しを掛ける。
「相手の機関員も結構強くってね。九条くん……ケガ、してたみたいだよ」
「え?」
「アリーシャちゃん、また九条くんに助けられちゃったね」
その言葉を聞いたアリーシャは思わず立ち上がった。そして。
「す、少し、散歩に行ってくる!」
そう言い残すと、ようやく戻ってきたばかりの隠れ家を飛び出していく。
そんなアリーシャの背を見送りながら、メアリーは楽しそうな笑みを浮かべた。
「うんっ、いってらっしゃい!」
夜の魔法都市を、アリーシャはただ一人駆け抜けていく。
吸血鬼は空を飛ぶことができる。さらに隠れ家には『夜装』という認識疎外のアイテムまで用意されている。
しかしそのことを、アリーシャは完全に失念してしまっていた。
ただ、九条のもとへ。
その思いだけで走り出してしまった。
「また、助けられた」
同じ追われる者として、翔馬の立場は分かっている。
機関に目を付けられることは、避けなくてはならない。
ましてや、立ち向かうことなど絶対にあってはならないのだ。
それでも九条は……助けに来た。
知らない事とはいえ吸血鬼を、天敵である自分を。
百年前から常に、自分の身は自分で守ってきた。
そんな最強にして最悪の吸血鬼を助けて見せた、一人の少年。
「九条……九条っ」
アリーシャは夜の横浜を、当てすらなく、ただひたすらに走り続ける。
仕事帰りの大人たちの間を、騒ぎ立てる魔術士たちの隙間をかいくぐるように。
その必死さに、思わず通行人の方が道を開けてしまうほどだった。
そして、アリーシャがレンガ造りの時計塔、開港記念会館の角を曲がったところで――。
「きゃっ」「うわっ」
飛び出てきた誰かと、思いっきりぶつかってしまった。
二人は倒れこみ、そしてゆっくりと顔を上げる。
「アリーシャ……さん?」
「……九条?」
走り続けていたアリーシャの息は、あがっていた。
しかし翔馬がひどいケガを負っていないことを確認すると、ようやく一つ息をつく。
そして同じように、翔馬の息もひどくあがっていた。
アリーシャの耳に、翔馬の「よかった」という安堵のつぶやきが届く。
翔馬は本当に、アリーシャを探して魔法都市中を駆け回っていたのだった。
「どこかぶつけたりしなかった?」
先に立ち上がった翔馬が、そっと手を差し伸べてくる。
アリーシャは、つかまれってことよね? と、少し戸惑いながらもその手をつかむ。
「私は別に問題無いわ。それより九条は……」
わずかな逡巡のあと。
「大丈夫なの?」
アリーシャはそうたずねた。
「もちろん。大丈夫だよ」
青く腫れた左手首を、隠すようにしながら笑ってみせる。
そんな翔馬の何気ない行動に、アリーシャの心が大きく揺れる。
九条は戦った、私のために。
たとえ軽いケガだったとしても、それは自分を助けようとして負ったもの。
それに九条は、こうして傷を隠してる。心配させないように。
「…………悪かった、わね」
悪の吸血鬼から、こぼれる言葉。
「機関員と戦わせるようなことになってしまって」
「まあ、ケンカ売るような言い合いを始めたのは俺だしさ。自業自得だよ」
翔馬は「気にしなくていいよ」と言って、再び笑ってみせた。
しかしその表情こそがアリーシャに、二人の間にある距離を感じさせる。
あの時から翔馬は遠慮したままで、それはなぜかとても寂しくて。
九条に……近づきたい。
教室で見た九条は、風花にイタズラを仕掛けたりしていた。
したいのはそう、あんな気軽なやりとり。
だから少しでいい、この距離を縮めたい。
それなら、この瞬間を逃してはいけない。今ならきっと素直になれる。
なにか、なにか手がかりを見つけないと。
考えるアリーシャに、一つのひらめきが舞い降りる。
それは先日学院のカフェで、去り際のクラリスが放ったなにげない一言だった。
「……ねえ、九条」
「ん?」
「アリーシャさんって、言いにくいでしょう?」
しかしクラリスのように好意的な行動を取れないアリーシャは、言い訳から入る。
呼びにくいから。まずはそんな大義名分から。
「だから、そんなにかしこまった呼び方しなくていいわ」
そしてさらにもう一つ。
「私だって九条って呼んでるわけだし」
そんな言い訳を挟んだ。だが、本題はここからだ。
「だから、九条も、私のことは…………気軽に」
アリーシャは大きく息を吸う。
いくつかの助走で、ようやく覚悟が決まった。
これまで何度もこういう機会をつぶしてきてしまった。
だからこれ以上、同じことを繰り返したくない。
今度こそ、そう今度こそっ。
「そうよ、もっと気軽に――――ア、ア」
九条へ一歩、踏み出してみせるっ。
「――――アリーシャ様って呼びなさいよ!」
二人の間に生まれる静寂。
最後の最後でアリーシャは、やっぱり持病を炸裂させてしまった。
……まただ、またやってしまった。
まさかの事態にアリーシャの碧い瞳が涙に揺れる。
この後の展開はもう、逃走以外にないのだ。アリーシャはいつだって。
――――しかし。
「上下関係になってんじゃねーか」
翔馬が一言、そう言った。
「気軽に上下関係を提案してくるって、どこの王族だよ」
止まろうとしていた空気が、ギリギリのところで再び動き出す。
それは最後のチャンス。
アリーシャは続く言葉を懸命に考え、震える唇を必死にこじ開ける。
「い、一応、上下関係はしっかりしておいた方がいいと思って」
「同学年ですよ、アリーシャ様」
すると早速翔馬は、笑いながらそう返してみせた。
そして二人の間に流れる空気が、変わる。
「……でも、ちょっと意外だったな。冗談とか言うんだ」
「そういう時も……あるわよ」
「そっか。でも冗談が言えるくらいだし、何事もなさそうで本当によかったよ」
そう言って翔馬は、再び安堵の息をついた。
ツッコミを入れたり、笑ったり。そんな何気ない行動の一つ一つが緊張を解いていく。
こうしてアリーシャは、ようやく――。
「まあ、転校生に魔法都市のルールを教えるっていう名目の、長い観光案内に付き合わされてすっかり疲れちゃったけど」
そんな軽口を叩くことに成功した。そして。
「……そういうわけだから、私はもう帰るわね」
そう告げた。最悪のミスは、冗談として片づけられた。
だからせめてこれ以上、下手を打たないように。
「ええと、大丈夫?」
「ここからだったら全然問題ないわ」
「そっか」
しかし翔馬は、帰ろうとするアリーシャの意図していたことに気づいていた。
「それじゃまた明日、学校で」
――――だから。
「――――アリーシャ」
その名を、呼んだ。
「…………そうね。また、明日」
見送る翔馬に背を向けて、アリーシャは歩き出す。
まだだ、まだ早い。
はやる気持ちを抑えて、不自然に思われないくらいの早足で進み、角を曲がる。
振り返り、翔馬から自分の姿が見えなくなったことを確認して。
ようやくそこで、アリーシャはなんと――。
うれしさに任せて、小さくぴょんとジャンプした。
「ッ!」
そのまま着地に失敗して尻もちをつくと、思わず笑みがこぼれる。
――――そして。
「…………やったぁ」
心から、しぼり出したかのようなつぶやき。
止まらない。自然と笑いが浮かんできてしまう。
今宵、わずかだが間違いなく二人の距離は縮まった。
それは安心と、そしてよろこびの入り混じった不思議な感覚だった。
――――もしも。
この瞬間を、この笑顔を翔馬が目撃していたなら、勝負はここで決まっていた。
たとえ吸血鬼にその血を狙われていても。
たとえ機関に疑われ、追いかけられていたとしても。
どんなに厳しい状況下に追い込まれていたとしても。
翔馬は、恋に落ちていた。
なぜならこの瞬間、アリーシャ・アーヴェルブラッドは間違いなく。
世界で一番、可愛い女の子だった。
「翔馬くんっ!」
しかしそんな時間も、長くは続かない。
聞き覚えのある声がして、アリーシャはとっさに息を潜めた。
「風花? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「うん、実はね――」
急ぎ足でやって来た風花は、この数日間で集めた情報を口にする。
翔馬の表情が、変わった。
「……マジか。それなら俺たちも動かないといけないな。帰って作戦を立てよう」
「うんっ」
こうして翔馬と風花は二人、足早にこの場を去っていく。
そして残されたアリーシャは――。
「……そう。もうこの時が来てしまったのね」
そう覚悟を決めるかのように言うと、ゆっくりと歩き出すのだった。
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