第55話 裏中華街と機関の猛犬.2
「い、行ってくれた……」
危機が去り、張っていた緊張の糸が解ける。
翔馬は止めていた息を吐き、呼吸を整えようとして――再び動きを止めた。
目の前には、風花の小さな頭。
その髪は今日とても……い、いい匂いがする。
それはもちろん、先日翔馬とアリーシャが一緒にいるところを見た風花が、帰り際に普段のものより良いシャンプーを買ってきたせいだ。
その甘い香りに翔馬は、同時に進行していたもう一つの問題に気がついてしまう。
これ、マズくないか?
二人で入るには、クローゼットはあまりに狭かった。
……温かいし、柔らかい。
問題は風花と密着しているというだけじゃない。抱きしめている翔馬の右手が思いっきり風花の太ももとお尻の間の微妙なところをつかんでしまってる……。
この事実に気づいたら、風花は絶対に慌てるはずだ。と、とにかく外に出よう!
翔馬は急いでクローゼットの戸にヒジを押しつける。しかし。
「……あれ?」
「どっ、どうしたの?」
風花が裏返り気味の声を上げた。
「立て付けが悪いのかな、開かない」
「わ、わたしが押してみるよっ」
そう言って今度は風花が戸を押し始めた。
「ん――――っ」
しかしクローゼットは、一向に開かない。
「ほ、本当だ、開かない」
実は、風花はなにから逃げているのか知らない分だけ翔馬よりも余裕があった。
そのため抱きしめられているという事実の把握も早く、とっくに慌てていたのだった。
「よ、よし、体勢を直して二人で体当りしよう」
「う、うんっ」
作戦を決め、二人は動き出す。
翔馬が身体を持ち上げるために右手を動かすと――。
「ひあっ」
「ど、どうした?」
「ううんっ、なんでもないっ。気にしないで!」
持ち上げた翔馬の右手が、風花のお尻を下着の上からなで上げる形になって思わず声を上げてしまったのだが、そんなこと説明できるわけがない。
「よし、行くぞ」
声をかける翔馬。二人は体重を後方の足にかけると――。
「せーのっ!」
タイミングを合わせ、動かなくなってしまった戸に体当たりを喰らわせる。
「「えっ?」」
声を上げたのは、二人同時だった。
さっきまで完全に閉じきっていた戸が、突然あっさりと開いたのだ。
二人は勢いよくクローゼットを転がり出る。
「あ痛たたた。って…………なんだ、ここ」
翔馬は呆気にとられる。
目の前には――――見たことのない風景が広がっていた。
そう。アイテムだったのはドアではなく、クローゼットの方だったのだ。
「うわ、すごい……」
クローゼットから抜け出た風花が、驚きの声を上げる。
そこはランドマーク塔の高層階にひっそりと作られた、空白のような小部屋だった。
外壁側に位置することもあって、帝国魔術博物館やベイブリッジが一望できる。
実はこの部屋のクローゼットは全て、学内どこかのクローゼットにつながっており、各所からこの場に来ることが可能だ。
「仕事の息抜きとかに、この場所を使ってたのかな?」
「かもしれないな。風花、大丈夫か?」
鮮やかな模様のカーペットの上に、赤面したままぺたりと座り込んでいる風花に、同じく顔の赤い翔馬が手を差し伸べる。
「う、うん。あの、でも翔馬くん、どうして逃げてたの?」
立ち上がった風花は、赤くなった顔を隠すようにしながらたずねた。
「前から来てたのが、まさにこの前テレビに映ってた学院生機関員だったんだよ」
もちろんそれだけではない。
翔馬はもう一度息をつくと、昨日あったことを風花に説明することにした。
不運にもクラリスに顔を覚えられてしまったこと、中華街で機関員と戦ったこと。そしてアリーシャを守るためにレオンとにらみ合いになったことを。
「そういうことだったんだね」
「昨日は言う暇がなかったから、今日中に伝えておこうと思って」
「外勤の機関員二人と戦ったんだ……大変だったね」
「これからは、健やかなる時も、病める時も、機関に関わらず、機関から逃げることを誓うよ。機関ダメ、ゼッタイ」
「でもケガがなくてよかった。外勤二人相手に無傷だなんてすごいことだよ。翔馬くん、本当に強くなっちゃったんだね」
風花は素直に感嘆の声をあげるが、翔馬はどこか浮かない表情をしていた。
「……どうしたの?」
「ああいや、アリーシャさんが休んだのがちょっと気になっててさ」
「裏中華街に入った辺りで、機関員にからまれてたんだよね?」
「そうなんだよ、平気かな」
「少しショックを受けちゃったのかもしれないね」
「あいつらの態度、本当にひどかったからな。特にレオンとかいうヤツは最悪だった」
「もともとエリート意識の強い機関員がアイテムを手にしたことで、自分を特別だって思っちゃうことは少なくないんだ」
本来、自分の魔術を活かせるアイテムなどそうそう手には入らない。まずアイテムは基本的に高級品であり、購入するのが普通に難しい。また安価なアイテムでも、それが市場のどこにあるのか見つけられないことが多い。
よって自身の『目標』に対してどう魔術とアイテムを組み合わせるのかは、死活問題なのだ。
しかし機関ではそれが貸し出されるため、簡単に『特別』になれてしまう。
「なにかあったわけじゃなければいいけどな……」
とはいえ、まだ一日欠席したというだけだ。
心配しすぎる方が、おかしいのかもしれないけど。
「機関にはヤバいヤツがいるって話も聞いてたからさ、風花は大丈夫だった?」
「どういうこと?」
「いや平気でヒドイことをするって言ってたから、気になってたんだよ」
「わたしはなんともないよ」
それを聞いて翔馬は「よかった」と息をつく。
「でも結局、吸血鬼については見つけるどころか情報一つ入って来なかったんだよ。どんな形でもいいから接近したいところなんだけど……風花の方はどう?」
「うん、翔馬くんが中華街に出向いた事件もそうだけど……なにか吸血鬼対策室を含めて機関の中で動きがありそう。でも、吸血鬼の直接的な情報は聞こえてこないかな」
「そうか……」
「だから今日もこの後、情報収集に出かけるつもりなんだ」
「分かった。昨日も帰りが遅かったし、無理しないようにな」
「うん。だからね、翔馬くんにこれを渡しておこうと思って」
そう言って風花は、おもむろにスカートの裾を持ち上げた。
「うわっ!」
翔馬は思いっきり驚いた後、慌てて視線をそらす。
風花は太ももに巻かれたガーターから魔封宝石を取り出そうとしたその手を、止めた。
「どうしたの?」
「ああ、いや、なんでもない」
そう言いながらも翔馬は、顔を背けたままだ。
すると不思議そうにしていた風花は、自身の格好を見直すことで答えにたどりついた。
持ち上げたスカート、のぞく太もも。
「……もしかして、翔馬くん」
うかがうような視線と、声で翔馬にたずねる。
「ドキッとした?」
「い、いや、そんなことないけど」
否定すると、風花は静かに翔馬へと近寄っていく。
「え、風花?」
そして正面に回り込み、そのまま翔馬の制服をつかむ。
それからピタリと張り付いて胸元に耳を当てると、そっと目を閉じた。
「……翔馬くん、ドキドキしてるよ」
風花は翔馬を見上げて「へへー」と笑うと――。
「弱点、見っけ」
そう言って、ちょっとだけ得意気な顔をしてみせた。
「これでもう、いじられっぱなしにはならないよ」
「いや、こんなのドキッとしないわけないって」
「どうして?」
「クローゼットからの流れもあるし、風花は可愛いってもうクラスの皆が認めてるだろ。気にならない方がおかしい」
翔馬がそう言うと、風花はわずかに距離を取った。
得意気にしていた表情も、どこか緊張感のあるものに変わっていく。そして。
「……翔馬くんは?」
うかがうような視線を、翔馬へと向ける。
「ん?」
「翔馬くんから見ても……かわいい?」
「そりゃもちろん、可愛いよ」
「ほんとう?」
「今日はなんか髪もツヤツヤでキレイだし……見惚れちゃったよ」
「……そっか」
そう言って翔馬の言葉を噛みしめるように微笑むと、今度はスカートの裾が大きくめくれてしまわないよう、そっと魔封宝石を取り出す。
今回はなんだかちょっと、気恥ずかしく感じながら。
「仕掛ける風花本人まで恥ずかしがるのかよ。とんだ自爆技だな」
「……え?」
言われて風花は自分の頬に触れてみる。
なるほど、たしかにしっかりと熱を持っていた。
「本当だね」
そう言って風花はまた「えへへ」と笑うと、手にした一つの魔法宝石を翔馬に手渡す。
それは吸血鬼との戦いでも最後のひと押しを担った、優秀な魔法アイテム。
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