青春と、時々ヒーロー!
キヅカ歩図
1学期編
第1話 志野真冬の日常
1
朝起きて、いの一番にするのはカーテンを開けること。まだ登りきらない優しい朝日をたっぷり浴びて、伸びをしながら寝ぼけた頭を叩き起こす。
クローゼットを開けようと戸に手を伸ばすとふいに、ちゅんちゅん、と雀が囀りながらパタパタと羽音を出して飛んでいくのが出窓から見えた。その様子が、父が朝早くから会社に出勤する姿に見えて、思わず吹き出してしまった。
気を取り直してコマを転がす音を出しながら戸を開けると、ハンガーに掛けられた皺が一つもない真っ白なカッターシャツが目に入って、少しだけ罪悪感に襲われる。パリッと糊のきいたシャツは、ハンガーから外してもくたっとならない。
自分でやるからいらないって言ったのに……。
他意なんてどこにも存在しない同居人のどこまでも暖かな優しさに触れて、これは無為に出来ないなと思った。
切り傷に水が触れて、ピリッとした痛みが指先に走るような感覚を首元に覚えながら、真冬はカッターシャツを着た。椅子の背に無造作に掛けられた濃紺のカーディガンを手に取り、扉の前に放置した通学カバンを肩に背負って、部屋を後にする。
その時、ほんの一瞬だけ、机上に置いた写真を見て、心の中で「いってきます」と呟いた。
さて、一階へ降りる前に寝坊助の弟を起こさなければならない。弟が小学校に入学してから早二年、いつの間にかこうして起こしにいくことが日常になっていて、まだ十にも満たないというのに、今からこれでは先が思いやられる。どこぞの幼馴染に憧れて真似するのは結構だが、こんなところまで似なくていい。……ていうか、これ以上手のかかる『男』が増えるのはごめんだ。
そんな事を思いながら、子供らしい丸いフォルムで象られた飛行機型の木製のネームプレートーー白抜きで『まか』と書かれているーーが掛けられた扉を、強くノックした。
耳をそば立てて部屋の主からの返答を少し待つも、いつものように静寂が訪れるだけで、今日もダメか、と真冬は肩を落とした。仕方ないわね、と思考を切り替えて勢いよく扉を開けると、薄暗い部屋なんて気にせずそのままベッドに直行する。布団に包まる弟からそれをまるで追い剝ぎのように無理矢理引き剥がすと、眼下から「うぅん……」と気怠げな声がした。
「真夏ぁ、遅刻するわよー!」
「んえぇ〜……姉ちゃん……あとごふぅ……ん……」
肩を掴んで揺さぶり起こすも、縫いつけられたようにクッションを抱きかかえて背中を丸めるしかめっ面の弟に、あたしは親指と中指に渾身の力を込めて、その額を弾いてやった。ぱちん、と痛快な音がして、素直に「あ、やりすぎた」と思った。
が、しかし。
「すぅ……すぅ……」
若干赤くなっている額に関わらず、弟は穏やかな寝息を立てて眠っていた。贔屓目抜きにしても可愛い寝顔を晒す弟に、あたしはあれ以上の事は出来なくて、どうしたもんかと頭を抱えた。
いっそ一度痛い目にあえばいいのだ。と、邪な考えが頭をよぎる。相手が幼馴染だったら容赦なくそれを選ぶのだが、まだまだ甘え盛りの愛い弟にそんなことはできない。いや、できるわけがなかった。
「まぁ〜かぁ〜! 起きなさぁ〜い!」
弟の柔らかい頬をぺちぺちと叩きながら、壁時計で時間の確認をする。時刻は七時二十分。登校時間は八時前後。弟を起こすのにかかる時間は、およそ十分。
「……はあ」
また今日も、ゆっくり朝食を食べれないな。
そんなことを思いながら、真冬は朝から大仕事に就いていた。
なんとか弟を叩き起こして、現在七時三十二分。予定より二分オーバーしたことに若干苛つきながら、真冬は朝食の席についた。
この時間にありがちな番組を見ながら、朝食を頬張る。
バターをたっぷり塗ってきつね色にこんがりと焼いた分厚いトースト一枚に、忙しい朝にありがたいほんのり温かいコーンスープと、塩こしょうでいい感じに塩味が効いたスクランブルエッグ。付け合わせは、少量の塩で茹でた鮮やかな緑色のブロッコリーが三つ。絵に描いたようなシンプルな朝食だと思う。
サク……パリッ!と気持ちのいい音を立てながらトーストにかぶりつく。鼻を優しく通過するバターの香りが、あたしは好きだった。
スクランブルエッグはフォークで一口大に切って、そのまま口へと運ぶ。ぷるぷるとした白身と、ほどよい柔らかさの黄身がじわっと溶け出すように濃厚な味とともに広がる。濃縮された味が連続して、だんだん重たくなってきた口内をリセットするように、ブロッコリーをそのまま放り込んだ。ワサワサとした部分と、茎のいい感じ(二回目だ)の食感を堪能しつつ、コーンスープが入ったカップを手に取った。上辺に浮いた薄い膜を突き破って、どろっとした甘いスープがじんわりと口内を温める。うん、美味しい。
限られた時間の中で優雅に食事を堪能しているそばで、パタパタと忙しない足音が背後からーーあたしの席の後ろは廊下に続く扉があるーーしていた。
……弟だ。何をしているのかまったく分からないが、あたしはそこまで気にかけるほど優しい姉ではない。ので、聞こえないふりをして、最後に残しておいたブロッコリーを一つ、口へ放り込んだ。
「真夏ー早くしないと冷めちゃうぞー」
止まない足音にしびれを切らした同居人ことーー真夏の父である庄司さんが、その音の元へと向かった。徐に遠くなる声が廊下の壁や床に反響して、ここ、リビングにそれは響いていた。
朝食を食べ終え、テレビに表示される四列の数字から時間を読み取ろうとすると、爽やかなBGMと共にアナウンサーの洗練されたソプラノ声が「現在八時二分、今日も一日頑張りましょう」という聞き飽きた定型文とともに繰り出された。まあいい、そろそろ学校に行かないと遅れてしまう。
「まかー給食袋と体操服忘れないようにね」
「あ! 忘れてた!」
扉の右側に掛けられたコルクボードに貼られた小学校の時間割を見ると、今日は午後から体育があるらしい。加えて月曜日。昨日給食当番だと言っていたから、その用意も必要だ。どうせ忘れてるだろうと思って声を掛けたら案の定で、弟は「いそげっー!」と叫びながら階段を駆け上がっていった。
ぴかぴかに磨いたローファーを履いて、タータンチェック柄のマフラーの端が背中へいくように巻く。そして通学カバンを肩に背負えば、いつものあたしが完成だ。弟もまだまだ体の大きさに見合わない黒のランドセルを背負って、真っ白な運動靴を履くと、早く早く! とでも言いたげな顔で、こちらを見上げてきた。
数十分前の寝坊助はどこやら、元気モリモリな弟に内心呆れつつ、あたしは玄関のドアノブをガチャッと大きな音を出しながら、奥に押し込んだ。
「お父さん! いってきます!」
「……庄司さん、いってきます」
「うん! よろしい! 二人とも、気をつけていってらっしゃい」
くしゃっとした笑顔で見送ってくれた同居人に、あたしはまた今日もタイミングを見失ったのだった。
◇◆◇◆◇
玄関を開ければ、タイミングを見計らったように朱色の細身なカチューシャで焦げ茶色の髪を上げた幼馴染ーー戸部涼が、門戸から顔を出した。いるのは分かっていたから、今日はなんとなく、自分から挨拶をしてみる。
「おはよう」
「おはーーっす!!」
ご近所の迷惑なんて一切考えない声量で返され、鼓膜がビリビリと痺れを起こしそうなくらい震えて、思わず耳を塞ぎそうになったがそこはぐっと堪えた。その代わりに「うるさい」とは一言もいわず、ただジトっと睨んでやると涼は、下がった目尻と釣りあがった眉毛を動かし、にかっと歯を見せて笑った。
……分かってて笑ったな、こいつ。
そう思うとイラッとするが、こんなことで腹を立てていたら幼馴染のペースに乗せられるだけだ。なんだっていちいちからかうような真似をするのか、……まあ他意というか、何も考えていないことくらい分かっているのだけども。強いていうなら「今日も頑張ろう!」って言いたんだと思う。それか本気で何も考えてないか。――うん、この場合なら後者に軍配が上がる。それくらい、目の前の幼馴染は何も考えていない。
「おはよう! 涼兄ちゃん!」
「おはーす! 真夏は今日も元気だな〜!」
「えへへ~!」
あれやこれやと考えているといつの間にか真夏と涼が門戸から出ていて、ずり落ちる通学カバンの肩紐を煩わしく思いつつかけ直して、二人を追いかけた。
幼馴染と弟を挟むようにして並んで歩く通学路。自宅が立地する住宅街を抜けると、片側二車線の大きな公道に出る。車道側にはあまり手入れのされていない植え込みが茂っていて、ぶっちゃけ景観は悪いほうだろう。反対側には駐車場だとか、よく分からない雑居ビル、個人経営の飲食店や美容室とかが立ち並んでいる。ちょうど最寄駅その一と最寄駅その二の間にある我が家の周辺は、なんというか、無駄ににぎやかだ。
「漫画読んでたら寝るの遅くなってさ~……チョー眠い……」
「涼……あんた昨日の現文の小テストがどうとか言ってなかった?」
「うっげぇ! 忘れてたぁ……うわー死ぬ……これ絶対詰んだ〜」
「はあ……」
頭を抱える涼に、真冬は深い溜息を吐く。唸り声を上げる、自分より十センチそこら背の高い幼馴染をちらりと見て、真冬はもう一度溜息をついた。
助け舟? そんなのあるもんか。まあ幸い小テストだし、最悪0点とっても中間テスト前に補習に呼ばれるか呼ばれないか、それくらいの違いだ。むしろ忘れん坊なあんたにはちょうどいいでしょ。
「涼兄ちゃん死ぬの?」
「そうよ。バカは死ぬ運命なの」
「バカはしぬウンメイ……?」
思わず目を惹く黒真珠のような大きな瞳を、ぱちぱちとまばたきしながら首を傾げる弟に、真冬は無表情で「覚えておきなさい」と付け加える。真夏は「わかった!」と真剣な表情で頷き、ご満悦といった姉は「いい子ね」と頭を撫でた。
「おいおいおい! 真夏になんつーこと吹き込んでんだよ!」
「……どんまい?」
「まい!」
「うわあああああ!!!!」
フッ、と小馬鹿にしたように笑ってやると、幼馴染はムンクの叫びみたいな顔して泣き叫んだ。あまりの声量に蹴りを入れかけたが、間を歩く真夏が「兄ちゃんうるさい」とピシャリと冷水を浴びせるが如く、感情のこもっていない声でトドメを刺していた。
誰に似たのか、行き過ぎた行動を容赦なく切り捨てる弟の目は据わっていて、誰か思い出しそうなんだけど……と頭を捻って、顔面半分がマスクで覆われた友人の顔が脳裏に浮かぶ。ああ、あいつの目死んでるしなぁ、なんてぼんやり考えていたら、「まぁふゆぅ〜助けて〜」と情けない声を出す幼馴染が背中を突いてきた。鬱陶しい、と声に出さず振り払えば、涼は「わかったよ……」とがっくりと肩を落とす。
「あら〜真冬と涼さんじゃないですかぁ♡」
そんなコントじみたことをしていると、物静かなエンジン音に紛れて、綿菓子のようなフワフワと甘い声が聞こえた。おもむろに視線を移すと、光沢が半端ない黒塗りの車の後方部から、桃色の髪を二つに分け、黒いリボンでサイドで結った髪型が特徴の友人が顔を出していた。
「あ、桃。おはよう」
「おはっーす!!」
「はい、おはようございます♡」
にっこりと笑った友人ーー桜花桃は、「ここで大丈夫です」と誰かに向かって(多分運転手だろう)言うと、優雅な動作で車から降りてきた。その際に少しだけお尻のあたり、スカートに皺ができてないかチェックしているのを見て、その様になっている姿に真冬は『女子としてやってることは変わらないのになんでこうも違うのだろう……』なんて、くだらないことに思考を飛ばす。隣に来た桃が「どうかしましたか?」と聞いてきて、真冬は「なんでもない」と答えた。
ふいに真夏が背中の陰に隠れてきて、なんだと思えば視線の先には桃がいた。しかし何にやらタイミングを計っているのか、気まずそうな顔でもじもじとしている。よく分からないが、適当に肩に手を置いて「ほら」と急かすと、弟は意を決したように頷いて桃の前に移動した。
「あ、えと、桃さん。おはようございます!」
「……あらあら真夏くん、おはようございます~」
「っ、うん!」
ランドセルの中身が出そうな勢いでお辞儀した弟に、桃は一瞬驚いた表情をして、すぐににっこり笑顔になった。顔を上げた弟は頬をほんのり紅く染め、歯を見せにっと笑う。うん、嬉しそうでなによりだ。
「じゃあ、姉ちゃん、涼兄ちゃん、桃さん! ぼくこっちだから! またね!」
「気を付けていくのよ」
「帰ったら遊ぼうな!」
「いってらっしゃいませ~」
「はーい!」
十字路で真夏と別れ、真冬と涼、そして桃の三人は少しだけ歩くペースを上げて学校へと向かう。学校付近ともなれば同じ制服を着た生徒がちらほらと増え始め、ようやくまた今週も学校が始まるのだという意識が芽生える。さっきまでのほほんとした空気でいたが、自然と話は逸れていき、授業やテストなど今考えたって仕方ない話題を繰り返す。
教室に着く頃には時計は八時二十分ジャストを指していた。
「じゃあな、真冬、桃」
「はい♡」
「……うん」
カラッと笑った涼に桃が応戦するように笑い返し、真冬は特に変わりなくいつも通りそっけない返事をする。涼は桃と顔を見合わせ困ったように笑うと、もう一度「じゃあな」と言って、教室へ入っていった。
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