File3 ツイン・チャイルド

1.ゴリラとバスケットボール

「それでは神園さん、よーく見てくださいね……」

 紫木がタブレットの画面を指さして私に言う。私は彼の言うとおりに今はまだ暗いままの画面へ意識を集中させた。カフェの若々しく他愛ない喧騒がフェードアウトしていく。

「いいわ」

「それじゃあ、スタート」

 紫木の指が触れると画面は明るくなりエレベーターホールの映像を映し出した。薄暗くだだっ広いその空間は恐らく鹿鳴館大学の校舎内だろう。私と紫木が初めて顔を合わせたあのエレベーターホールだ。

 映像の右端にはエレベーターホールと一緒に黒のシャツを着た大学生くらいの若者が三人映っている。左端には白いシャツの人物が同じく三人。それぞれ真ん中の人間はバスケットボールを抱えている。

 映像が六人を映したあとすぐに字幕が現れる。「白いシャツを着た人は何回ボールをパスしたでしょう?」だ。紫木が映像を見せる前に言っていた、映像に映し出される指示とはこのことだろう。私は意識をさらに集中させて白の持つボールを注視する。

 字幕が消えると六人がめいめいに動き出し、ボールが彼らの手から空中へ投げ出された。くるくると回るボールは控えめに空を飛んだあと別の人間の手に収まる。一回。同じことが二回、三回と繰り返される。四回、五回、六回……。

 映像は長いものではなく、ボールを目で追っているとあっという間に終わった。映像が終わると紫木がタブレットを私の目の前から取り上げる。

「さて神園さん。白の人たちがボールをパスしたのは何回ですか?」

「簡単じゃない、こんなの。十一回……でしょう?」

 私は紫木の目を見据えて答える。自信はあるけど改めて聞かれるとちょっぴり不安になるような気がしてしまう。彼の眼鏡の奥で光る、魚介類に似た大きな黒目が余計にそんなことを考えさせてしまうのだろう。

「えぇその通りです。さすがは神園さん」

「あのねぇ先生、これくらい誰だってわかるわよ。この映像を見て目撃証言の不確かさのいったい何が理解できるっていうの?」

 目論見通りとでも言いたげに満足そうな笑みを見せる紫木に私は呆れていった。十一月に初めてこの奇妙な犯罪学者に出会い、彼の活躍によって犯人を逮捕してからというもの私はこうして時折彼に会っては犯罪学の知識をあれこれ教えてもらうことにしていた。今日は非番ではないが大きな事件もなく昼がぽっかり空いたので大学のそばにある喫茶店で食事をとりながら彼の話に耳を傾けていた。

 十二月に再び彼と捜査に乗り出し無事に解決した事件が目撃証言を扱うものだったこともあって、年が明けてからの私たちの話題もそれに関連したものになっていた。目撃証言の不確かさ。はっきり見たというものが見えていなかったり、逆に見ていないはずのものが実はそこに存在していたり……。十二月の事件でそのことをまざまざと見せつけられた私だけど、実のところそんなことがあるのかまだ半信半疑でもあった。あの事件では目撃者に特別な事情があって見えていてしかるべきものが見えていなかった。でも大抵の目撃者はそんな事情は抱えていないし、あれはごく一部の極端な例なのではないかという疑念があったのだ。

 そのことを素直に紫木へ伝えると彼は「じゃあ神園さんにも体験してもらいましょう」と言ってさっきの映像を見せてきたのだ。でもボールがパスされた回数はきちんと数えられたし、何か特別なことが本当にあっただろうか。

「では神園さん、さっきの映像についてもう一つだけ質問させてください」

「なに?」

 紫木はにやにやと笑いながらそんなことを言ってくる。まるで既に悪戯が成功したことを知っている子供のような無邪気な表情だ。

「この映像の中でゴリラが横切ったんですが、気づきましたか?」

「……ゴリラ?」

「えぇ、ゴリラです」

 私と紫木の間に沈黙が流れる。彼は今にも吹き出しそうだ。

「いやいやいや、そんなの通らなかったわよ。先生、騙そうったってそうはいかないわ。ゴリラなんかが通ったら誰だって気づく」

「本当ですか?」

「本当よ」

 再び沈黙が流れる。紫木は相変わらず真面目な顔を装おうと頑張っているけどその努力は無駄に終わっていた。

「わかった。この伝票をかけようじゃない」

「えぇいいですよ。ごちそうさまです」

 机に置かれていた支払伝票を手にする私へ紫木が勝ち誇った顔で言った。そして彼はタブレットを私の目の前に差し出すともう一度映像を流す。

「画面の後ろにご注目ください」

 バスガイドを真似る紫木を無視して私は映像を凝視する。さっきと同じ映像は問題なく進み、再生時間も中ほどまでいった。

 その時だった。

 画面の後ろを黒い物体が横切った。

「あ、ゴリラ……」

「お粗末様です」

 ゴリラが確かに画面に映っていた。しかも目立たないようにこっそり横切るのではなく、中央でドラミングまでしている。なんで気づかなかった!?

「ちょっとあなた、映像すり替えたでしょう? これ……どうやって操作するかわからないけど」

「あぁダメですよ神園さん。この通り、動画のページは変わってないでしょう?」

 大慌てでタブレットを叩く私を制して紫木が言う。彼の言う通り動画再生サイト内での動画のタイトルにはさっき見たものと違いがなく、動画のすり替えなどしていないことは一目瞭然だ。機械には弱いけどそれくらいはわかる。

「このように、人は一つの物事に集中すると視界が狭くなってほかのことに意識がいかなくなってしまうんです」

「はぁ、まさかここまでとは……」

 私はぐったりとして椅子へ深く腰かける。実際に体験してみると驚愕は並大抵ではない。十二月の事件で自分の証言を覆された目撃者も狼狽していたけど無理もない。自分の見ていたものという確固たるものが崩れ去るのだ。自分に自信が持てなくなってしまう。

「人間の注意というのはスポットライトによく例えられます。ライトは範囲を広げると光が薄くなる。範囲を絞れば照らされているところは明るくなりますが暗い部分も増えてしまう。暗くなったところは意識に上らず、そのため視界に入っていても見えていないという状況になるのです」

 ゴリラの映像にショックを受ける私を差し置いて紫木は饒舌に解説をする。この饒舌さはあくまで犯罪学に限ったものであり、それ以外の話題だと彼は人が変わったように黙りこくってしまう極度の人見知りであることを私はこの二か月でよく理解している。

 だから彼がどうして犯罪学者になったのかとか、そもそも出身はどこなのか、どういう人生を送ってきたのかというプライベートな話は一切したことがなかった。休日に何をしているのかも知らない。こうして度々会っているけど感覚としては仕事仲間に近い。

「このような話は交通事故でもよく言われますね。なぜ運転中に携帯電話を操作してはいけないのか。片手運転になって危険だからという理解をよくされますがそれは本質的ではありません。最大の理由は注意が会話やメールに向かうことで自身の前方へ割くべき注意が疎かになってしまうということにあるのです。だから本当に事故を防ぎたいのであればハンズフリーの通話も禁じてしかるべきなのですが……」

 ノンストップで話し続ける紫木を私は苦笑しながら眺めていたが、交通事故という言葉が出た途端に左膝が痛んだような気持ちがした。昨年の六月に私は事故で左膝を骨折している。原因は犯人を追跡しなければという焦燥感から来る視野狭窄。一つのことに集中しすぎると周りが見えなくなるという彼の話そのままの現象を、実をいうと私はもう経験しているのだ。

 私が左腕をさすっているとズボンのポケットで携帯が震えた。私が紫木に断りを入れてから出ると、警部の大きな声がスピーカーから響き渡る。

「おい神園! すぐに戻ってこい。仕事だ」

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