6.昨晩の夕食は

 矢野宅にお邪魔した私たちは、そのままダイニングに通されて椅子に座らされた。正面に矢野を見据え、彼から向かって右に紫木があっという間に陣取った。人の家だというのにその動きは素早く、さっきまでの人見知りっぷりはなんだったのだと思わせられた。私は彼の左に座る。他人の家の食卓に、義足の仏頂面な犯罪学者とガタイのいい女刑事というのどかな家庭とは程遠いキャラクターが二人も居座る格好になり、私はとにかく居心地が悪かった。

「あらぁ、こんな時間にわざわざご苦労様です」

 私がそんなことを考えていると、キッチンから矢野の妻らしき中年女性が現れた。パーマをあてた髪に花柄のエプロン。どこにでもいそうな普通の、おっとりとした雰囲気のある主婦だ。彼女はお盆に湯呑を三つ載せて運んできて、私たちにお茶を出してくれた。

「ああ、わざわざどうも……」

「奥さん」

 私が彼女に礼を言っていると、紫木がそれをぶった切るように割り込んできた。口調もはきはきとしていて、犯罪のことを私に説明するときと同じモードに入っているようだった。

「はい?」

「奥さんも一緒にいて話に加わって下さい。大事な話ですので」

「はぁ……」

矢野とその妻は怪訝そうな顔をしたが、有無を言わせない口調のためか、大学の先生という肩書のためかその指示に従うことにしたらしい。夫人は夫の右隣に座り、食卓に加わった。

「さて、矢野さんの証言の話に入る前にいくつか確認したいことがあるのですが」

 紫木は夫人が席に着くのを確認すると、前置きなしで話し始めた。両肘をテーブルにつき、目線は矢野をしっかりと見据えている。

「矢野さんはどのようなお仕事をされていますか?」

「仕事ですか……学校の警備員ですが」

「どのようなことをされるのですか?」

「決まった時間に校舎を巡回します」

「事故に遭ったと伺いましたが、その怪我が治った後仕事には事故以前と同じように復帰されたのですか?」

「はい……」

「復帰したあと、何か仕事で困ったことはありませんでしたか?」

「困ったことですか? いや、特には……」

「そうですか。あ、ちなみに事故の際に頭は打ちましたか?」

「ええ……でも医者に異常はないと言われました」

「そうですか。ところで、通勤にはいつも電車を?」

「ええ」

「ちょっと待ってください」

 あまりにも淡々と連続して行われる問答に、私は割って入った。質問を重ねるたびに矢野夫妻の不審そうな表情が厳しくなっていくのを感じたのだ。私は紫木の両肩を掴むと、矢野夫妻のいる方向から体を逸らさせた。

「なんですか」

 紫木が不満そうに言った。どうやらこいつは矢野夫妻の表情変化に一切気がついていないようだ。

「なんで証言と関係のないことをそんなに聞くのよ」

「関係なくないですよ。こんな状況で関係ないことなんて聞くわけがないじゃないですか」

 紫木はきっぱりと言い放つ。全くもって正しい主張だったが、まさに関係のない質問ばかりしているように見える彼には言われたくなかった。

「わかったわよ……何か関係があるんでしょ。でも聞き方ってもんがあるじゃない……」

 私は紫木に向かってそう言ったが、当人はピンと来ていないような顔のままだった。これは私がフォローしないとダメなようだ。

 私は矢野夫妻に向き直ると、

「えーと、証言と関係のない質問をされたと思って戸惑っているかもしれませんが、往々にしてそういう些細なところに思いがけない手がかりがあるのが警察の捜査というやつでして、ええ。だからその、お手数ですが先生の質問に付き合っていただけると……」

 と言った。そうすると彼らの警戒が少しだけ和らいだような気がしたので、紫木の肩を掴んでいた手を離した。紫木も矢野夫妻に向き直ると、軽く咳払いをして

「それでは続けますが」

 とさっきと変わりのない口調で言った。矢野夫妻の警戒がまた元の水準に戻っていくのを感じて、私はため息を吐いた。

「少し妙な質問をするかもしれませんが、重要なので答えてください。奥さん」

「はいっ!?」

 自分には質問は飛んでこないだろうと油断していたらしい矢野夫人は調子の外れた返事をし、体を強張らせた。

「旦那さんは最近食事をよく残されますよね?」

「ええ……」

 突然会話の筋があらぬ方向へ飛び、今度は私も怪訝な顔をした。矢野を見てみると、彼の顔がどんどんと険しくなっていっているのがわかった。不躾な学者先生に対していつ怒り出すのか気が気ではない。

「例えば昨晩の食事、旦那さんが残されたものはまだ残っていますか?つまり、冷蔵庫かなんかにラップをして保存してあったりはしていませんか?」

「はぁ……一応ありますけど……」

「見せてください」

「え?」

 夫人はいよいよ訳が分からないといった顔で紫木を見た。まるで妖怪か何かを見てしまったかのような目つきになっている。

「重要なことなのです。これは出来るだけ早いうちに明らかにすることが旦那さんの今後の人生に資するのです。手遅れになる前にどうか」

「は、はい……」

 紫木に強く畳みかけられて、その上旦那の人生までも人質に取られて夫人はふらふらと席を立ち台所へ向かっていった。そして手にラップの巻かれた白い皿を手に戻ってきた。

「どうぞ……」

 夫人が皿を差し出すと紫木は無言で受け取り、まじまじと見つめた。矢野家の昨晩の夕食はトンカツだったらしく、皿には半分残されたカツと付け合わせのキャベツがのっていた。カツもキャベツも、左半分だけが綺麗に残されている。

「奥さん。旦那さんにはこの方向で出したのですか?」

 紫木は満足げな顔で皿を食卓に置くと、そんなことを聞いた。

「はい?」

「ですから、いま僕の目の前にあるように、手前側にカツを奥側にキャベツをのせた格好で出すのですか?」

「ええ……そうだと思いますけど」

「そうですか」

 紫木はまた満足したように一瞬破顔する。一方の夫人の混乱はピークに達しようとしているようだ。

「それともう一つ……普段食卓にはどのような配置で食器を置きますか? 茶碗は右お椀は左というように、大抵どの家庭にもなんとなく決まりきった配置があると思いますが」

「いい加減にしてくれ!」

 矢野がついに声を荒げた。彼のこめかみはぴくぴくと震え、怒りに満ちていることがよくわかった。当たり前だ。むしろよくここまで耐えたというべきだろう。

「さっきからなんだあんたは! 大学の先生か何かは知らないが、そんなこと聞いてどうする気だ!」

「ではこの質問は答えなくても結構です。ですが一つだけ教えてください、奥さん」

 紫木はそれにも一切ひるまず、質問を続ける。

「旦那さんが残す小鉢……いつも左側にありますね」

 紫木はまるで、それが当然の前提であるかのような口調で聞いた。「ありますか?」でもなく「ありますよね?」でもない。私に問いかけたときと同じ口調だった。その質問に、夫人は、ゆっくりとうなずいた。

「どうしたの?」

 矢野の火に油を注いだ紫木を連れてどう退散したものか私が考えを巡らしているところへ、少女がやってきた。英子ちゃんだ。腕にはキャインキャインと鳴くシーズー犬を抱えている。最初この家に来たとき鳴いていたのはこの犬だったのだろう。さっきまで見かけなかったことから、恐らく邪魔にならないように犬を連れて二階にいたのだろうと思われた。それが父親の怒声を聞いて降りてきたというわけだ。

「ああ、えっと……」

「ではお暇します」

 私が突然の乱入者に戸惑っていると、紫木は状況を一切顧みないような発言をして席を立った。私は結局、その強引な退散がベターだと判断して「お騒がせしました……」と申し訳なさそうに言いながら紫木に後を追うように席を立った。

「ああそうだ」

 紫木は英子ちゃんの横を通り抜けるときに、思い出したように言った。

「矢野さん、近く京都府警へおいでいただくことになると思いますがそのときは是非英子さんを連れて来てください。そこで証言の正しさを明らかにしましょう。きっと彼女の疑念も解決すると思いますよ」


 私は紫木を引っ張って、半ば逃げるように矢野家を後にした。矢野家が見えないところまで早歩きで進むと、ようやく一息つけた。

「ったく……どういうつもりだよ……これで何かわかってなかったら先生を公務執行妨害で逮捕するからね!」

「大丈夫ですよ。もう謎は解消しましたから」

 紫木は膝に手をつきぐったりとする私を勝ち誇ったような目で見て言った。

「でも難しいですね……インタビュー調査というのは。普段の研究は質問紙ばかりですからね。やはり臨床心理学者にはならなくて正解でした」

「カウンセラー紫木優っていうのは笑えない冗談だわ……」

 本当にやめてほしい。患者が全員憤死してしまうだろう。

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