3. 学者センセー

 京都府警操作第一課が私の職場だ。五ヶ月ぶりの出勤は同僚の注目を一気に集めたようで、皆がじろじろと私を見てきた。私は事故の直後の、自分を見下ろす冷たい目線を思い出してしまい、それを振り切るように早足でデスクに向かった。

 署の自分のデスクの上は物置と化していた。机の主が停職なのをいいことに、両隣の人間があまり使わない資料や弁当の空容器などを器用に積み上げたために、下手に手が付けられないようになっていた。ゴミは片付けたかったが、それをやり出すと今日一日を片付けだけに費やすことになるだろう。

 しばらくその様をぼうっと眺めていると、野太い男の声で名前を呼ばれた。上司の井原警部だ。

「神園、突っ立ってないでこっち来い! 仕事だ仕事!」

「はあ」

 私は曖昧に返事をすると警部のデスクまで歩いていった。私と違い毎日出勤しているはずなのに、警部のデスクの上は私のデスクに負けないくらい物が積み上げられ、危うい均衡を保っていた。一番上には一昨日の朝刊が乗っかっていた。

「なんだそのやる気のない返事は。お前には五か月の失点を取り返すために働いてもらわないと困る。見ろ!」

 その停職を決めた張本人がよく言うよと思いながら、警部から押し付けられた朝刊を眺める。日付も新聞社も私の部屋にあったものと同じだったので、「読みました」とだけ反応した。

「お前があのとき捕まえておけばこんな記事も出なかった! 責任を感じろ責任を!」

「はあ」

 もう一度曖昧に反応する。普段なら言い返したりするところだが、やはりその気にはならなかった。私があまりにもぼやけた反応しか返さないせいか、警部も気勢をそがれつつあるようだ。

「ああもう! とにかくだ! 停職明けだからって簡単な仕事で済ませてやる気はないからな。お前にはこれから事情聴取に行ってもらうぞ! 鹿鳴館大の学者センセーだ」

「学者センセー?」

 かつて通っていた母校の名前と、予想していなかった職業とが同時に出てきたことで、ようやく頭がはっきりし始めてきた。

「通り魔事件……ですよね? なんで学者センセーが出てくるんです?」

「あほかお前は! 本当に記事呼んだのか? ガイシャはその大学の学生って書いてあるだろ。今からお前が話を聞きに行くのはその学生の指導教員だった男だ」

 もう一度記事に目を通すと、確かにそう書いてあった。被害者は結城望実、鹿鳴館大学の四回生らしい。読んだ気でいたが、見出ししか目に入っていなかったようだ。

「ま、指導教員なんかに話を聞いても何の手がかりにもならないと思うがな。精々がんばれ」

 そういうと警部は近づいて、私の肩を叩きながら資料と一緒に警察手帳を突き出した。私がそれを受け取ると、警部は「そうそう」と言いながら内緒話でもするように顔を近づけてきた。

「人事には、お前をいずれ交番勤務にでも戻すように言っておいたからな。捜査一課はお前には荷が重いだろう」

「え?」

 私が驚きの声と共に振り返ると、警部はそのままこちらを見もせずに歩き去ってしまっった。その様子をまたぼぅっと眺めていると、今度はせわしなく小さな人影が近づいてくるのが見えた。


「薫! 久しぶり。大丈夫だった?」

「ああ、ううん……」

 私の相変わらずぼけたような返事を聞いて、その人影の正体である赤井川晶は心配と呆れがないまぜになった表情をした。彼女は京都府警の鑑識課に勤める鑑識官であり、私の親友でもある。そういえば、この停職中彼女ともほとんど交流は絶ってしまっていた。

「ううん、じゃないわよもう! 薫がいない間けっこう大変なことになってたのよ本当に!」

 彼女がぴょんぴょんと跳ねるように、私に近い年齢に似合わない子供っぽい口調で訴える。殊更のっぽな私と、殊更チビな彼女との間にある四十センチ以上もの身長差を、なんとか埋めようとしているのだろう。

「大変なこと?」

「そうだよ! あなたもう少しでクビになるところなのよ?」

「ああ、そうか……」

 さっきから働き始めていた頭が、ようやくいつもの水準まで戻ってきた。しかし目の前に現れた処遇問題に対処できるレベルではないようで、私は自身の危機にうろたえようとしたが、どこか他人事のように感じてしまいうまく出来なかった。

「クビって……今日復職したばかりなんだけど」

「まあ、あくまで噂なんだけどね。不良女刑事、遂にクビって署内じゃ例の連続殺人事件よりニュースバリューあるわ」

「警部は交番勤務とか言ってたけど」

「うん、クビは噂だけど、来年度から交番勤務くらいに格下げされるんじゃないかっていうのは割と確信度高い情報みたい。その警部さんが吹聴してたって聞いた」

「交番勤務かぁ……それもいいかも」

 私は、何十年も前の交番勤務時代をちらっと思い出した。不良を十五人くらいまとめて蹴り飛ばしたのが昨日のように思い出される。殺人犯一人満足に捕まえられない私には、あれくらいが丁度いい仕事の規模なのかもしれない。

「いやダメでしょ!」

 そんなことをぼんやり考えていると、晶に真正面から否定された。ばしっ、という効果音がそのまま聞こえてきそうなほどの断言だ。

「薫はあんまり気にしてないだろうけど、あなたの奔放ぶりは署の女性警官の中じゃ割と有名なんだよ。そんなあなたがあのオヤジたちの圧力に屈したら私たちの立つ瀬がないじゃない」

「奔放ぶりって……褒められてる気がしないけど」

「褒めてるよ。それを別としても、このままあなたが引き下がる理由ってないと思うけど? だって、今回の件だってあなたが雨の中情報収集していたから犯人に会えたんでしょ? 結果的には逃がしちゃったけど、少なくともあれ以降なんも手がかりもつかめてない連中に比べてマイナスがあるとは思えないわ」

「ううん……そう言われるとなぁ」

 晶が腕組しながら言った。心なしか、オフィスにいる刑事を睨み付けているようにも見える。その視線を感じたのか、若い刑事が逃げるようにオフィスから去っていった。

 いつものことだけど、晶にまくしたてられるとなんとなくそんな気がしてくる。煽られているというか、口車に乗せられているだけの気もするが、彼女の口車には乗っておくというのが私のスタイルだったし、今回もそれを再現すれば元気が湧いてくるかもしれないと思った。

「それに捜査での成績じゃ薫が一番だっていうじゃない。今回の事件もあなたが解決しちゃえば降格する理由はないんじゃない?」

「成績が一番って……誰がそんなことを?」

「人事の人に聞いたよ。この前お茶してきた」

「相変わらず顔の広いことで……」

 晶は私と違って人当たりもいいし、気も利くから署内に大勢知り合いがいる。その上聞き上手でもあるから、彼女にぽろっと本音を漏らしてしまう人も多い。その技量たるや捜査一課も一目置くほどで、あの嫌味な井原警部ですら「お前じゃなくて赤井川がうちにいてくれたらなぁ」といったことがあるほどだ。

 勝手にむかつく上司の嫌味を思い出し勝手に傷ついてしまったが、ともかく彼女が聞いたという署内の噂の精度が高いのは確かだ。つまりこの事件で何らかの成果を出せれば、署が私を降格する理由を失うというのも事実なのだろう。

「じゃあ……もう少し頑張ってみるかな」

「流石私の親友! その意気よ!」

 私が腹の底からなんとか絞り出すように言うと、晶が励ますように請け合った。

「あー、でもどうやって頑張ろう。今から行くところも手掛かりがありそうな感じゃないんだけど」

 彼女のおかげで少し気分が回復したが、今後の具体的な動きを考えるとやはり気が重い。通り魔事件なのに、被害者の関係者に話を聞いても仕方がない気がする。だからこそ、井原警部は私にこの貧乏くじを引かせたのだけど。

「どこに行くの?」

「鹿鳴館大学の、えっと……文学部の先生だって。専門は……犯罪心理学?」

「へぇ、犯罪心理学」

 私が警部から渡された資料を眺めていると、晶が覗き込もうとした。私は彼女のために、資料の位置を下げた。

「犯罪心理学なら、あれが出来るかもしれないわね。えーと、そう確かプロファイリングっていったと思うけど」

「プロファイリング?」

 私は晶の顔を覗き込みながら尋ねた。

「うん、プロファイリング。私は専門じゃないから全然わからないけど、少ない手がかりから犯人を当てられるって聞いたことがあるよ」

「犯人を当てる……かぁ。そういえばそんな話研修か何かで聞いたことがあるかも」

 研修なんて今まで一度も真面目に受けたことがなかったからほとんど記憶にはないが、プロファイリングという言葉には心当たりがあった。もしプロファイリングが、晶の言うように正確に犯人を当てられるならば、使えるかもしれない。

「役に立つかなぁ」

「役に立つかもよ。なんにせよ、まずは話を聞いてみるところからね」

 晶はそう言うと、私の腰を叩いた。本人の中では背中を叩いているつもりなのかもしれないが、手が届いていなかった。

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