十三歩目 子猫と今


 *


「待ってってば!」

 マノルは人間の足もとをすり抜けて街の中を走りながら、必死で真っ黒な背中に呼びかけます。

 しかし、弟猫はちっとも足を止めてくれません。むしろ、声をかけるたびに加速している気がします。

「ねえ、待って!」

 そうさけんだとき、なつかしい声が脳裏にひびきます。――思い出しました。家出をした日、母さんにまったく同じ言葉を言われたのです。怒りとくやしさに任せて森の中へ消えていく後ろ姿に、母さんは精いっぱいさけんだのです。あの悲しそうな声が、母さんとの最後の記憶です。

 自分の声を、思いをだれかに届けられないということが、こんなにも辛いなんて知りませんでした。あの日、自分はこんなふうにして大切な家族を傷つけてしまったのです。

 罪悪感に胸をしめつけられながら、それでもマノルは走り続けます。落ちこんでいる場合ではありません。少しでもこの後悔をやわらげるためにも、弟猫とまっすぐに向き合わなければいけないのです。

 しばらく走っていると、人気が少なくなってきました。マノルはぐんとスピードを上げると、無我夢中で逃げていく弟猫に向かって、飛びかかっていきます。宙にういた瞬間、弟猫が青白い顔をしてこちらをふり向きました。怖がらせるような真似はしたくなかったけれど、こうでもしないと止まってくれないのだから、しかたありません。

 弟猫の口から、おびえとおどろきが入り混じった金切り声が上がります。なんとか逃げようともがく彼の背中におおいかぶさりながら、マノルは声を張り上げました。

「ボクのこと知ってるでしょ!? ねえ! 答えてよ!」

「殺さないでくれ!」

 予想外の一言に、マノルは息をのみました。

「悪かったと思ってる。だから……」

 おさえつけた背中が、小刻みにふるえています。謝罪の言葉が出てくるということは、兄弟であることにまちがいないでしょう。マノルは全身の力をゆっくりと抜くと、自分の下であきらめたようにうつぶせになっている弟猫に語りかけます。

「そんなことしないよ。ただ、お兄ちゃんと話したいだけなんだ」

 怖がらせないように意識しながら言うと、自然と声もやわらかくなりました。

 お兄ちゃん。

 自ら発した言葉に、またなつかしくなります。一番目の兄猫も、二番目の弟猫も、マノルにとってはお兄ちゃんです。なかよしだったころは、ふたりともマノルのことをとってもかわいがってくれました。

 両親は、子猫たちを生まれた順の番号で呼び分けることがありましたが、三番であることに不満を感じたりはしませんでした。じまんのお兄ちゃんたちだったのです。あの日が来るまでは。

「……本当か?」

 弟猫はためらいながらたずねました。マノルはそれに答えるつもりで背中からおり、起き上がった彼にほほ笑みかけます。

「一緒に、来てくれる?」

 優しく問うと、弟猫はだまってうなずきました。


 静かにしぶきを上げる噴水を背にして、

「ごめん」

 弟猫はマノルに深々と頭を下げます。

「オレさ、ただお前がうらやましかっただけなんだ。たぶん兄貴も。あんなひどいこと言って、本当に悪かった」

 彼の言葉に、マノルは首を横にふりました。

「もういいよ。ボクのほうこそ、ごめん。あんなの、ちょっとしたケンカだったのに、飛び出したりなんかしちゃって」

 弟猫はまだ何か言いたげな顔をしていましたが、笑顔でそっと制します。あの日、兄弟たちがマノルにどんな感情をいだいていたとしても、たとえそれがキジ猫の作戦だったとしても、もう関係ありません。大切なのは、今なのです。

 マノルは弟猫のとなりに座りこむと、あわい草色の左目と、すんだ空色の右目でまっすぐ彼を見つめました。

「母さんたちは、元気?」

 すると、弟猫は切なげに緑の目を細めます。

「分からない」

 思ってもみない返答に、マノルは目を丸くし、小さく息をのみました。

「お前がいなくなってしばらくは、父さんも母さんも必死になってさがしてた。でもそのうち、父さんが帰ってこなくなって」

 空をながめながら話す姿が、なんとなくドライトに似ています。

「オレたちがミルクを飲まなくなったら、母さんもどっかに行っちまった。『いつかはひとりで生きていかなきゃならないの』って言い残して」

 マノルも空を見上げて、家族のことを考えました。もうあの場所へ帰っても、会うことはできないのです。そう思うと、さびしさと切なさでのどがつまったような感覚になりました。

「夏までは兄貴と一緒にいたけど、あいつともケンカして別れた。それからは、きちんとしたテリトリーも決めずにあちこちぶらぶらしてるよ。バカだよな、オレ」

 弟猫は、情けなさそうに苦笑しました。

「同じ失敗をくり返すなんてさ。お前がいなくなったとき、せめてふたりでなかよくしていこうって約束したのに」

 ふいにさらりとした秋の風がふき、マノルはその心地よさに目を閉じます。

「……そっか。でも、きっとひとりでも生きていけるよ、お兄ちゃんなら」

 目を閉じたままつぶやくと、ぼやけてきらめく視界の中で、弟猫がふっとほほ笑んだのが分かりました。ちょっと元気になってくれたでしょうか。

 マノルは弟猫に色々なことを話しました。飛び出していった先でドライトに出会ったこと、街でマグロを食べたこと、パンの味のこと、ナツキのこと……

 全部話し終わったころには、もう日がかたむき始めていました。

「さて、ボクはそろそろ帰らないと。暗くなったら、ドライトに怒られちゃう」

 マノルは立ち上がると、大きく伸びをします。

「今日はありがと、またね。お兄ちゃん」

 そう言うと、弟猫はクスクス笑いました。

「お前、やたら『お兄ちゃん』って言うんだな。一緒にいたころは、そんなに呼んでくれなかったのに」

 マノルはきょとんと首をかしげます。

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 すかさず返ってきた答えは、どこか楽しげに聞こえて、マノルもつられて笑いました。

「じゃあ、またね」

 もう一度別れのあいさつをすると、マノルはくるりと向きを変え、夕焼けが作り出した自分より少し大きな影を追いかけながら走っていきました。

 弟猫はきっと、見えなくなるまで見送ってくれたことでしょう。


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