十一歩目 子猫と変化

 キジ猫の一件からしばらくおだやかな日々が続きました。

 季節は夏から秋へと移り変わり、辺りの山々はすっかり赤や黄に色付いています。マノルはあの後も「ひとり旅」の日数を重ね、今ではもう、ひとりで街に来ることが当たり前になっていました。

 秋が深まり始めた日暮れの街を、マノルはきょろきょろ見回しながら歩いていきます。周りの木々がちょっと姿を変えただけで、街の雰囲気までちがって見えるのですから、不思議なものです。

 ひっそりとした夕方だということもあるのでしょうが、夏場はあんなにはしゃいで見えた人間たちが、すごくおしとやかな気さえするのです。

 そんなことを考えながら、マノルは今日もパン屋の前で立ち止まり、おねだりのひと鳴きをします。

「あっ、猫ちゃん」

 ドアが開いていたので、すぐにナツキが気づいてくれました。

「ちょっと待っててね」

 そう言って、緑のバンダナとエプロンをつけたまま、彼女はお店のおくに引っこんでいきます。

 長い間このパン屋に通い続けているおかげで、マノルは色々なことを覚えました。

 まずひとつめに、昼間に街に行っても、パンはもらえないということ。どうやら、夕方でないとナツキが働いていないようなのです。よく顔を見せるだけあって彼女以外の人たちも、マノルのことを覚えてくれたようです。けれど、みんなそろっていそがしそうにしていて、パンをくれたことはありません。

 ふたつめ、ナツキがくれるパンは、いつもかたくて冷めていること。というのも、彼女がくれるのは、その日に売れ残ったパンだからです。だれにも買ってもらえず、捨てるしかなくなったパンのかけらをわけてくれるのです。

「捨てられちゃうより、だれかにおいしく食べてもらったほうがいいでしょ?」

 いつだったか、彼女はそう言っていました。人間たちは焼きたてのほうが好みなのかもしれませんが、熱さにびんかんな猫にとっては、冷めたくらいがちょうどいいです。あのふわふわ感が、ちょっとなつかしい気もしますけれど。

「お待たせ~」 

 と、そこへナツキがやってきました。マノルの前でひざを折り、手に持ったパンを小さくちぎると、手のひらにのせて鼻先に差し出してくれます。初めて会ったときから、何ひとつ変わっていません。

「おいしい? 猫ちゃん」

 たずねられて、ちょっとがっかりしてしまいます。質問にではなく「猫ちゃん」という呼び方に対してです。

 ここで、覚えたことみっつめ。どんなにがんばっても、猫の言葉は人間には通じないということ。今までナツキに「猫ちゃん」と呼ばれるたび「ちがうよ、マノルだよ!」と伝えてきたのですが、どうしても鳴き声にしか聞こえないらしいのです。あきらめたつもりでいても、やっぱりショックでした。

 それはそうと、今日のナツキはなんだか元気がないように見えます。いつもはとてもうれしそうにマノルがパンを食べる様子をながめているのに、今日は、ほほ笑んでさえくれません。真っ黒なひとみのおくが、つかれたようにくもっています。具合でも悪いのでしょうか。

 どうしたんだろうと思っていると、

「ねぇ、聞いて」

 彼女がすがるように言いました。わけを話してくれるようです。

「カレにね、あなたのことを話したら『猫はひっかくからキライだ』とか『犬もほえるからキライだ』とか言い出すのよ。ひどいでしょ!?」

 ナツキは急に声をあららげました。カレとは、お友だちのことでしょうか。たしかにひどい言いようです。猫が人間をひっかくのはイヤなことをするからだし、犬がほえるのは身を守るためだけでなく、時にかんげいの印ということもあるのです。ちゃんと知ろうともしないで、一方的に決めつけるのはどうかと思います。

 マノルがパンを食べ終えると、

「動物を愛せない人に、人間なんか愛せないと思うな。私は」

 ナツキはちょっぴり難しいことをふくれっ面で言った後、

「こんなにかわいいのにね」

 ため息交じりにつぶやいて、マノルの背中をなでてくれます。相変わらず優しいタッチです。

「ナツキちゃーん!」

 ふと、お店の中から男の人の声がして、ナツキがふり返ります。

「ちょっと、これ運ぶの手伝っ……おわっと!」

 彼女が返事をする前に、何かがくずれ落ちるような物音がひびきました。

「あっ、大変!」

 彼女は、あわてて手についたパンくずをはらって立ち上がり、

「じゃあね、猫ちゃん」

 そう言い残して、お店の中へとかけていきました。ひとつに結んだ長い髪が、頭の後ろで大きく左右にゆれています。

 だからマノルだってば! と、心の中でつぶやいてみたけれど、やはり伝わっていないようでした。


「そういえば、言ってなかったよね?」

 白いチョークで点をちりばめたような星空を見上げながら、マノルが問いかけると、ドライトはきょとんと首をかしげます。

「ボクね、初めてひとりで街に行った日に、パンをくれた女の子にまた会えたんだ」

 マノルの言葉に、彼は「あぁ、」と喜んでくれたような、でもどこか苦々しいような、複雑な笑みをうかべます。

「あいつが来る前、なんか言おうとしてたもんな」

 あいつというのは、キジ猫のことでしょう。そうです。ちょうどその話をしようとしたタイミングで彼がやって来たので、言いそびれてしまったのです。

「今日も会いに行ってきたんだけどね」

 マノルは、爪の先にそっくりな三日月をながめながら続けます。それは今にも消えてしまいそうなくらい細いのに、たしかな光を放っていました。

「その子、夕方だけパン屋でお仕事してて。いつも売れ残ったパンをわけてくれるの。だけど、今日はなんか元気なくてさ。お友だちとケンカしちゃったみたいなんだ」

 マノルは言いながら、ナツキのかがやきを失ったひとみと、お店の中へとかけていく背中を順番に思い返します。マノルとふれ合って少しは元気を取り戻したようでしたが、本当に大丈夫でしょうか。

「そうか。仲直り、できるといいな」

 ドライトのなんの気ない返答は、なぜかマノルの心にずしりとのしかかります。大きくはないけれど重さのある石で上からおさえられたような、心地悪さを感じました。どうしてでしょう。しばらく考えて――思いいたりました。マノル自身にも、仲直りをしなければならない相手がいるからです。――うちを出てから一度も会っていない、兄弟たちが。

「……ねぇ、ドライト、明日も街に行っていい?」

 たずねると、思いがけず、彼は優しい表情をしました。

「そう言うんじゃないかと思ったよ。気をつけて行ってくるんだぞ?」

 マノルは大きくうなずきます。理由を説明する必要はなさそうです。

「――な。お前」

 と、ドライトが小声で何かつぶやきました。あまりに小さな声だったので、上手く聞き取れませんでした。

「え? 今なんて言ったの?」

 聞き返すと、彼はとっさにうつむいてしまいます。

「……なんでもない」

「えー、気になるー!」

 ねばり強くそう言ってみましたが「気にするなって」とますます視線をそらしました。こんな様子の彼を見るのは初めてです。

「ねえってばー」

 ちょっとおもしろくなってきました。

「もしかして――照れてるの?」

「照れてない! 怒るぞ、もう!」

 つっけんどんに言いつつも、ちっとも怒っていません。本気で怒ったときのドライトを、マノルはよく知っていますから。

「教えてよー」

 ドライトとおふざけの会話をするなんて、初めてのことかもしれません。

「なんでもないって言ってるだろ!」

「うっそだぁ~」

 じゃれ合う二匹の声が、夜の空に楽しくこだましました。

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