四歩目 子猫と優しい夜


 *


 遅くまで街ではしゃいでいたので、テリトリーに帰ってきたころにはすっかり日がしずみ、辺りは暗くなっていました。

「遅くなっちまったな。つかれただろうし、特訓は明日からにしてやるよ」

 ドライトは言いながら草の上に座りこみ、ふーっとため息をつきます。子猫もとなりに寄りそいました。

 今日の空はうす暗い色をしていましたが、まばらに星がかがやき、まん丸の月も顔を出しています。

 二匹はしばらくだまって空を見上げていましたが、

「……なぁ、そろそろ、聞いてもいいか?」

 やがて、ドライトがゆっくりと口を開きました。夜空に視線をそそいだままたずねてきた彼の横顔を、子猫はきょとんと見つめます。

「オレと初めて会った日、お前があんなところにいた理由」

 つぶやくようなその問いかけに、子猫はとまどいました。

 初めて会ったとき、当てもなく立ちさろうとする子猫に、彼は言いました。そっちは危険だ、何をされるか分からないと。

 おそらく、子猫がまだ母さんのミルクを飲むほど幼いと知った日から、ずっと気になっていたのでしょう。ノラとして長く生きてきた彼でさえ行きたくないような場所に、生まれたばかりの子猫がひとりでいたのですから。

「……ドライトはさ、フツーってなんだと思う?」

 しばらく迷って、子猫は言いました。そして彼にすべてを話しました。家族はみんな黒い毛色なのに、自分だけが白かったこと、目の色も左右でちがうこと、お前はフツーじゃないから出て行けと、兄弟たちにからかわれたことも。

「そうか。色々大変だったんだな、お前も」

 ドライトは、子猫をなぐさめるように言って、

「オレはいいと思うけどな。その真っ白な毛」

 と、はげましてくれました。

「でも、おじいちゃんのヒゲみたいだって……」

 子猫は、あのときのくやしさを思い出して口ごもります。

「ッケ。くだらないヤツらだな」

 でも、ドライトのたくましい言葉が、それをふき飛ばしてくれました。子猫は少しびっくりしつつも、彼をじっと見つめます。すると、彼も子猫のほうをふり返り、目が合いました。やっぱり優しい目です。

「そいつら、きっとお前に嫉妬したんだよ」

「シット?」

「ああ。お前の毛色がうらやましくなったのさ。だいたい、おじいちゃんのヒゲはこんなにきれいな白じゃない」

 ドライトはついにこらえきれなくなったのか、大声を上げて笑い始めました。子猫もつられて笑いました。

「そんなの、ほっとけばいいんだよ、ほっとけば。気にしたっておもしろがられるだけだ」

 笑いがおさまると、ドライトはなんでもないことのように言います。ぶしつけな言い方でしたが、不思議と元気をもらえました。

「うん。そうだね」

 子猫はもう一度小さく笑ってから「でも、ヘンじゃない?」と続けます。

「前の日までは、なかよく遊んでくれてたんだよ?」

 兄弟たちは、どうしてとたんに意地悪になってしまったのでしょう。

「たぶん、言葉で説明できるような理由なんかないんだと思う。心の中にたまってるものって、ほんのささいなきっかけでガマンできなくなることがあるんだよ」

 ドライトはそう答えて、

「お前は気にしてるみたいだが……目の色だって、すごくきれいじゃないか」

 子猫と目を合わせたまま、そんなことを言い出しました。突然のことに、胸がドキリとします。

「左目はオレたちが座ってる草原の色みたいだな。今は暗くて分かりづらいけど。右目は――そうだな、晴れた空にそっくりだ」

 彼はそう言って小さく息をのんだ後、つつむような笑みをうかべました。

「笑ったり泣いたり、いそがしいな、お前は」

 あれ? あれれ?

 その言葉に、子猫は初めて自分が泣いていることに気がつきました。ひとみから丸いつぶがポロポロこぼれ、夜の草原をぬらします。

 それは、家族とはなれてから今日まで、ずっとこらえていたものでした。ずっとガマンしていた、心の中にたまっていたものだったのです。

 ドライトは、兄弟たちとはちがう毛色や目の色を、きれいだと言ってくれました。フツーじゃない子猫のことを、ほめてくれました。

 彼の言葉ひとつひとつに、心がきゅっと苦しくなり、気づいたら、なみだがこぼれていたのです。

 一度あふれ出してしまったら、もう止められませんでした。なみだの止め方なんて、子猫は知りません。

 だけど、知っていることがあります。

 何も言わず、ただとなりに寄りそって、泣きやむのを待ってくれている彼が、だれよりも優しいことを子猫は知っていました。

 目つきがするどくたって、口が悪くたって、ドライトは優しく、そして強いのです。


 どれほど、そうしていたでしょうか。

「お前が泣きやむのを待つ間、名前を考えてみた」

 子猫が落ち着いてくると、ドライトがうれしそうに話しかけてきました。

「どんなの?」

 子猫のひかえめな声は、まだ少し鼻にかかっています。

「『マノル』っていうのはどうだ?」

「マノル?」

 変わった名前だったので、どうやって思いついたのか気になり、子猫は聞き返しました。

「『ふつう』っていう意味の言葉の中に『ノーマル』っていうのがある。それを縮めて並べかえただけだ」

 話を聞きながら、子猫は少し切なくなりました。また鼻の奥がツンとなるのを感じて、ぎこちない笑顔を作ります。

「……気に入らなかったか?」

 心配させまいと取った行動が、かえってドライトに気を使わせてしまったようです。彼のひとみに子猫の姿がうつります。そんなことをされたら、よけいに切なくなるではないですか。

「ううん。とってもうれしい」

 子猫は、さりげなく夜空に目をそらして答えます。

「ただ――名前もらったから、もうお別れしなきゃいけないのかなって」

 子猫の名前を決められなかった夜に、ドライトは「しばらくここにいればいい」と言ってくれました。だから、しばらくというのは、名前が決まるまでなのかな、と子猫は思っていたのです。

 そう彼に伝えると、

「あぁ、ごめん。言い方が悪かったな。ずーっとここにいればいい。まだ狩りの特訓もしてないじゃないか」

 と、言ってくれました。

「あらためてよろしくな、マノル」

 初めて名前を呼ばれて、また視界がぐにゃりとゆがみます。

「バカ、もう泣くなって」

 ドライトが、そっと、なみだのしずくをなめてくれます。マノルは泣きながら笑いました。

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