三歩目 子猫と最高の食事
*
ほおにザラザラしたものがさわります。なんだろうと目を開けると、目の前にぼんやりとドライトの顔がありました。
「おい、起きろ」
呼びかけられて、はっと目を覚まします。そうでした。今日は街に行く約束をしていたのです。
「もう出発するの……?」
ねぼけまなこで空を見上げると、まだ全体的に白んでいて、太陽も出ていませんでした。
「遠いからな。ほら、こっちだ」
ドライトはそっけなく言って、先を歩き始めます。子猫もおぼつかない足取りで、彼の背中についていきました。
「ねむい」
子猫があくび交じりにつぶやくと、
「マグロが待ってるぞ。歩いてりゃそのうち目も覚めるさ」
ドライトが言いました。あいかわらず無愛想な声でしたが、子猫に合わせて少しゆっくり歩いてくれているようだったので、別に怒っているわけではなさそうです。もしかすると、彼も早起きは苦手なのかもしれません。
街は思ったよりもずっと遠くにありました。動物たちに見送られながら、ドライトと出会った場所を通り過ぎ、家出したときに飛びこんだ森をちがう方向に抜けて――それでもまだ、ドライトはずんずん進んでいきます。
彼が言った通り、歩いているうちに少しずつ目が覚めてきました。そうして、意識がはっきりしてくると、子猫はあの、お腹と背中がくっつきそうな空腹感を思い出してしまいました。
あまりにお腹がすいて何度も地面にへたりこみそうになりながら、それでも前へ進みます。マグロ、マグロ、と心の中で呪文のようにくり返しながら。
一体どれほど歩き続けたのでしょうか。足のうらがじんわりと痛み始め「もうダメかも……」と思ったそのとき、
「着いたぞ」
ひたすら無言で先を歩いていたドライトの一言に、子猫は我に返ります。彼の視線を急いでたどると、そこには息をのむような光景が広がっていました。
目が回りそうなほど大勢の人間たちが行き交い、パラパラとにぎやかな足音がひびきます。
遠くまでずらりと立ち並ぶお店には、それぞれ、肉や野菜、くだものなどが所せましと並んでいました。お店のそばで大きな旗が風にゆれているところもあります。
「わぁ……!」
街は思っていた以上にすてきな場所でした。目の前にあるものすべてが、キラキラとまぶしくかがやいて見えます。
子猫はいてもたってもいられずに走り出しました。
「おい、待てって」
ドライトがあわてて後をおい、すぐに子猫のとなりに並びます。
「まったく、はしゃぎすぎだ。初めてなんだからオレの後ろを歩け」
ぶっきらぼうに言いつつも、彼の表情は優しげでした。
「はーい」
子猫は陽気に返事して、彼の後ろにくっつきます。
ドライトは、人間の足もとを上手にすり抜けて進んでいきました。子猫も見よう見まねでついていきます。
人々の楽しげな話し声、お金を取り出す音、まばらな足音、それらはまるで楽器のようにかろやかで、子猫を一層わくわくさせました。
出発するときには白んでいた空も、今は青い絵の具のバケツをひっくり返したように真っ青です。雲ひとつうかんでいません。
「見てみろ」
周りの音や景色に夢中になっていた子猫は、ドライトの声にぴくりと耳を動かします。
彼が見つめている方向に目をやると――空と同じ青色の屋根の下で、たくさんの魚が太陽の光を受けて銀色にきらめいていました。とたんに忘れかけていた空腹が押し寄せ、子猫のお腹がグゥと鳴ります。
「ちょっと待ってろよ」
そう言って、ドライトは緑色の目をするどく光らせます。
そして、おでこにタオルを巻いたおじさんがお客さんのほうをふり向いた瞬間、魚が入ったケースに飛び乗りました。
すばやく大ぶりな一匹をくわえます。きっとマグロでしょう。
子猫は胸をおどらせます。
「あっ、こら! どろぼう猫!」
まずい! おじさんが気づいてしまいました。緊張感に背中がひやりとします。
「このっ! このっ!」
がむしゃらにつかまえようとする黒くて骨ばった手を、ドライトはひょいひょいとよけ、アスファルトに飛びおりました。やっぱり彼は強いです。
大きなマグロをしっかりくわえたまま、子猫に「行くぞ」と目で合図します。二匹は小走りで人ごみの中へ消えていきました。
「こらー!」
おじさんのどなり声が遠くのほうで聞こえて、子猫はクスリと笑いました。
ドライトは人通りの少ない場所へ子猫を案内すると、マグロをそっとアスファルトにおろし、
「テリトリーまで持って帰ってたらくさっちまう。ここで食うぞ」
と言いました。
なかなか手に入らないだけあって、マグロを運ぶ彼の動きはとてもていねいでゆっくりでした。ネズミのときとは、まるでくらべものにならないほどに。
子猫がしりごみしていると、
「どうした? 食えよ」
ドライトはきょとんとして、マグロをすすめてくれます。
「え、だって……とってきたのドライトだし」
いくら映画のワンシーンのようにカッコよく見えても、彼にとってあの一瞬一瞬が命がけだったことくらい、子猫には分かっていました。これは彼が先に食べるべきです。
そんな子猫の気持ちをたった一言で感じ取ってしまったのか、ドライトはふっとやわらかにほほ笑みました。なんだか切なげです。
「いいんだよ、オレは。お前が食べた骨をしゃぶれば、それでじゅうぶんだ」
聞けば、今日の朝も子猫を起こす前に腹ごしらえをしてきたそうです。
「ハラ、減ってんだろ?」
彼の問いかけに答えるように、またお腹が鳴ります。
「じゃあ……」
子猫はためらいながらも、マグロをひとくちかじりました。
すると、口の中に海の香りがぱあっと広がり、つるつるとした冷たいものが舌の上でおどります。こんな感覚は初めてです。
「どうだ、うまいだろ」
ほこらしげにたずねてきたドライトに、マグロの身をほおばったまま、何度も何度もうなずきました。おいしいなんて言葉では、表しきれないくらいです。
子猫は夢中になって食べ続けました。ドライトが本当に骨をしゃぶるしかないほど、きれいに食べつくしてしまいました。
今まで母さんのミルクの味しか知らなかった子猫にとって、それは最高の食事でした。
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