恋猫
田村 月
第1話 猫の熱愛
時は徳川天下の元禄時代。
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、殺生を禁ずる生類憐れみの令を制定した。
この法令は、当初は殺生を慎む精神論的法令であったが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度に。また、犬目付職を設けて、 犬への虐待が取り締まられた。元禄9年(1696年)には、なんと犬虐待への密告者に賞金が支払われる事となった。
この時代、犬は「お犬さま」と言って、虐待は愚か、大事に大事に扱われ、祀り崇められていた。
猫は犬ほどではなかったが、それでも殺生は禁じられ、野良猫が大きな顔をしてかっ歩していた。そして、ちまたでは、そこかしこに無数の野良猫たちがたむろしていた。
こんな背景の時、この物語は始まった。
家康以来の家臣として忠実に仕え続けた由緒ある旗本の楓家には、一人息子の淳乃介がいた。
本年20歳。独身。大の猫好き。
現在、3匹の猫を屋敷内に飼い、その猫たちを淳乃介は熱愛していた。
その中でも、淳乃介が一番可愛がっているのが、雌猫の美化(みけ)である。
美化は、生後約1年。多感な発情期を迎える、いままさにお年頃の雌猫だ。
近所の野良猫たちが、にゃおにゃご~とやかましい。
美化にちょっかいを出そうと虎視眈々と狙っている精力絶倫のオス猫たちだ。
美化は容姿端麗。それは、それは、絶世の美猫。
その見目麗しき事、いといと高し。この辺りのオス猫たちにとって憧れの的的存在だ。
つい少し前の事。
この辺を縄張りとする野良猫の番長 縄張り順位1位の虎が、美化を狙って屋根伝い、塀伝いに楓家の庭へ。
楓家の庭は、この辺りの猫たちの溜まり場だ。
虎は隙を狙って猛然と突進。美化のうしろに何の断りもなしに回った。
しめしめ。
虎がにんまり笑い舌なめずりをする。
くんくん。
虎は背後から美化の臭いを思い切り嗅いだ。
う~~~うんふん。
たまらん。
何と言う芳しき臭いだ。
虎は臭いを嗅いだだけでいきそうになった。
ぐわーーッ。
虎が美化の尻を目掛けて猛然と、いや我武者羅に飛び付いた。
ヒョイ。
美化が尻を咄嗟に俊敏に動かし、虎の欲望をかわした。
「見損なわないで」
「私は品の悪い野良なんかに興味はないわ」
美化は何も無かったように、その場を凛々しく立ち去った。
実際、美化はオス猫たちには興味がなかった。
血統のいい美男猫であろうと、野性味溢れた野良猫の番長であろうと、全くと言っていいほど、美化は興味が無かった。
興味があるのは、オスではなく、気高く知性豊かな男、人間の男だった。
楓家のひとり息子 淳乃介さまだった。
「淳乃介さま」
「ああ、淳乃介さまーーーッ」
「こんなにもあなた様をお慕い申しております」
美化は自分の部屋に戻ると、いつものように、うわ言のように呟いては、果たせぬ夢に溜息を付いていた。
この屋敷内には、美化のほか、みみ、玉の猫たちが、楓家に飼われていた。
みみは、美化の姉妹の三毛猫。
玉は、エキゾチックな風貌を持つシャム猫のオス。淳ノ介が友人から貰ったイケネコ。美化にぞっこん。ただいま美化に求愛中。
これらが楓家の猫たちだ。
妹のみみは、部屋の隅 いつもの席でこっくり、こっくり。寝ては喰う、喰うては寝るの能無し妹。
シャム猫の玉は、美化を見るとすぐそばに擦り寄って来て、スキンシップをしたがる。体をどこかしこと押し寄せ密着させるのが、玉は好きだ。
「おい、近過ぎるんだよ」
美化がわざと体を離れさせると、決まってにゃおにゃにゃおと、きざなセリフを言いたがる。
甘い顔を見せると、すぐ背後を窺って、「いいだろう」って言う顔をするから、油断は禁物。
「私は尻軽猫じゃないよ。おあいにく様」
と、言って美化が睨み付けると、玉はこそこそと逃げ出す憎めない奴だ。
とかく、猫のオスは、あれしか頭にないみたいだ。寝ても覚めても、あれ、あれ、アレ。猫のオスは体全体が欲望の固まりだ。知性のかけらも無い。
「他にする事があるだろう。もっと知性を持て。淳乃介さまのように。書物に勤しみ、武術を磨き、暇な時は猫と戯れる」
「これぞ、誇り高き生き方。理想の生き方というものだ。私が淳乃介さまを心からお慕いする所以だ」
いま、美化に心配の種がひとつある。それは、楓家のひとり息子 淳乃介さまの見合い話だ。
「余計な事を・・・」
美化は、腹立たしくて、腹の虫がどうにも治まらない。
「この話を壊したい」
「木っ端微塵に葬りたい」
美化は無い知恵を絞っていろいろ思案するのだが、何せ猫世界の事ではなく、人間世界の事。知恵が到底及ばない。
「どうしたものか」
「ああでもない、こうでもない」
と、言っている内に、見合い話は明日に迫って来た。
「ああ、恐ろしや」
「こうなりゃ、明日本番に実力行使するしかあるまい」
美化の腹が漸く決まった。
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