河霞

八花月

(上)

 何故か、ひどく疲れるのだ。 

 狭山しょう子は、日陰を探して歩いていた。

 教室を出て、まだあまり慣れない校内をふらふらする。

 どこか、どこか、ゆっくり、落ち着ける場所……。

 心の内に、そっと呪文のように唱えながら、廊下を彷徨う。

 やっとのことで階段の近く、なにかの置き場なのだろうか。

 ちょうどしょう子が一人、すっぽりと納まるくらいの窪みがあるのを発見した。

 ほっと一息つき、しょう子はそこに、亀のように身を密める。

「あら、しょう子さん。どうなすったの?」

「……ああ、なつ、め……さん?」

 いかにも偶然、というように声をかけてきたのは、同じ組の棗だった。

「やぁだ、こんなところで。まるで蝙蝠みたいね」

 宇都宮棗はこんなことを言いながら、不躾に肩を叩く。

 一緒に、けらけらと陽気な笑い声もしょう子の耳に届いた。

 こうもり?

「いやぁよ。眉間に皺を寄せちゃあ」

 そんなつもりは、と弱々しく答えるしょう子に、棗はおどけて掌を差し伸べる。

 一瞬、躊躇してしょう子はその手の招待を受け取った。

「お日さまが苦手なの?」

「いえ……」

 問われて、暫し考えてみる。

「以前はそうでもなかったのだけれど、最近。少しだけ」

 理由はよくわからないのだが、この二、三日どうもひんやりとした闇の空気を恋しくなることが、日中に何度かあった。

 ここに転校してきて、次の日からのことだ。

「まだ慣れないのよね。どう? 良ければ校内を案内するけど。それとも保健室のほうがいい?」

 保険医の先生――にお世話になるほど、調子が悪いわけではない。

「ありがとう。ガイドのほうをお願いしようかしら? ……保健室の場所も教えてくださる?」

 私、病弱なもので。しょう子が付け足すと、

「まあ、いやだわ」

 揺れる袂で口元を隠し、棗は笑う。

 しょう子は身を起こし、一緒に笑顔を作る。

 一通り、案内してもらったころには、しょう子と棗はすっかり仲良くなっていた。

「ああら、平野さん。恐いわ」

 二人が戻った時、教室の中ではちょうどこんなやりとりが始まっていた。

 人だかり、というほどではないが、一人の生徒の周りにパラパラと人が集まっている。

「……ペーパーナイフ。刃もついてないから切れない」

 座ったまま、その生徒は小刀の上で指先をすっと滑らせて見せた。

 キャッ、と少々誇張された気味のある歓声が上がる。

「玩具のようなものよ」

 続けながら彼女は、舶来の筆箱をすっとスライドし、底にナイフを納めた。

「それでもねえ……装飾は異国風で素敵だけど、なんだかそれ、見ていて不安になるわ」

 一人の生徒が、立ったまま両手を自分の体に這わせ、ぶるっと身体を震わせる。

 レターナイフにしてはちょっと大きすぎない? などという声もあがったが、

「そう」

 と、そのおさげの女生徒は素っ気なく返事をしただけだった。

 一瞬、周りの級友らは顔を見合わせたが、

「あらあ」

「つれないお返事」

 などと言いながら、身を寄せ合って笑っている。

「ごきげんナナメはいつものことよねえ、ようぜんいんさん」

 優雅に教室に入って来た、一つの影がその集団に声をかけた。

「さあさ、皆さま。勉学のお邪魔をしちゃあ悪いわよ」

 彼女は、なかなかの求心力を持っているらしく、

「そうですわね。薫子さん」

「そういえば、そろそろお時間」

 などと言いながら、その一叢はあっという間に散ってしまう。

 おさげの少女は特に自習している様子もなかったので、しょう子は薫子という人の『勉学のお邪魔』という言い方にちょっとしたいやみを感じた。

「ねえ、ようぜんいんさんって?」

 しょう子が問うと、棗は困ったような顔で、

「ああ、彼女、名前が“阿久里”なの。フルネームで平野阿久里」

 と、答える。

「ほら、あの、四十七士の」

 まだピンときていないしょう子に、何故か棗は囁くようにダメ押しした。

「ああ、瑤泉院」

 しょう子にもやっと理解が及んだ。浅野内匠頭の正室である。

 他愛のないあだ名のようだった。

「平野さんよりも用心がいるのは、あの薫子さんよ」 

 そのまま耳打ちの姿勢で、棗は続ける。

「後から入って来た、あのかた。上級生からも下級生からも人気があるの。もちろん同学年からも。……具体的に何かなさるわけじゃないけど、とっても影響力があるから……あまり近づかないのが無難だと思うわ」

 ふうん、と返事をし、しょう子は薫子に目を向ける。

 棗のようにいかにも快活、という印象はないが、利発そうできゃいきゃい騒いでいる様子はとても愛らしい。

 人気があるというのも頷ける。

「何か秘密の、サークルとか研究会のようなものを、主宰してるって噂もあるし……。いかにも軽佻浮薄って感じがして、私は正直あまり好きではないわ」

 棗は嘆息したあと、

「あら、今のは誰にも言っちゃいやあよ」

 としょう子に念を押した。

 わかっているわ、秘密ね? としょう子はくすくす笑いながら約する。


「ねえ、平野さん」 

 翌朝、騒々しい教室の中で一際よく響く、強い声が木霊した。

「あなた、見栄えのするレターナイフを持っているそうね? 見せてくださらない?」

 しょう子はハッとして、声の方角を見る。

 まだ、持ち物の片付けも終わっていないような時間帯のことだった。

 きちんと背筋を伸ばし、一分の隙もなく着席している阿久里のすぐ横に、これまた勝ち気の濃そうな少女が傲然と見下ろしている。

 教室中に妙な空気が漂っており、みな彼女らに注目しているようだったが、分けてもしょう子は、息を詰めるようにそれを見守っていた。

 阿久里はちらりと視線を動かし声のほうを見たが、それきりである。

 何の反応もせず、つまり無視したのだ。

 ちょっとあなた、と言いながら少女が阿久里の肩に手を置いた瞬間、

「ごめんね」

 と阿久里が一人ごとのように言った。

 微動だにせず、睫毛すら動かない。

 少女は、気圧されたように一歩、後じさった。

「あなたは関わりを持てない物なの。忘れてちょうだい」

 抑揚のない、ただ咽喉のみから出ている声である。

 これが少女の何かに火をつけたようだった。

 だいたいそんなもの、校内で使うことなんかないでしょう?! どういうつもり!

 そのようなことを、少女は口走る。

 しょう子は思わず立ち上がった。

 何故かはわからないが、阿久里を庇わなければ、と思ったのだ。

「碧さん、落ち着きなさいな」 

「どうなすったの?」

 集まって来た女生徒たちに囲まれ、まずは事無きを得たようなので、手持無沙汰になったしょう子も取りあえず席に着いた。

「悪いわね」 

 阿久里は一言、碧と呼ばれた少女に向かって一言投げかける。

 先程と違い、此度の口調は何かに耐えているように辛そうで、しょう子には阿久里の詫びの言葉が、心の真から発しているように思えた。

「何をしているの?!」

 大きな金切り声が聞こえる。

 いけない、竹屋先生だわ。

 生徒たちは、わっと蜘蛛の子を散らすように教室中に広がっていく。

 整然と机に収まっていく様子は、幾何学的な美しさを伴っていた。

 着席した後も、碧と呼ばれた少女はちらちらと阿久里を睨んでいる。

 阿久里という少女も、つっけんどんなところがあり、あまり好かれる性格ではなさそうだけれど、それでも碧のこの態度は度を越しているように思われた。

 しょう子は、何か異様な執着を感じ、胸が悪くなる……。

 ああ、そうだ。

 この人いきれが、苦手なのだ。不意にしょう子は思い至った。

 陽光の有無は関係なかった。

 人が少なければ少ないほど、しょう子は気分が良くなる。

 一日経ってかなり慣れたが、この教室に居る時、特に授業中は体調が悪くなるのだ。

 “あまり、慣れないほうがいい。”

 心の中のどこかから、声が聞こえた。

 しょう子は、辺りを見回す。

 誰も口を開いている様子はない。

 竹屋先生も、普通に授業していらっしゃる。

 今の声は、何?

 自分だろうか?

 無意識の深い淵から、私が私に警告を届けているのだろうか?

 ほのかに鼻腔をくすぐる、甘い匂い。

 頭の芯に、つうん、と何か痺れるような感覚が――。

「もっと、Concentrationなさい!」

 教鞭を鳴らしながら、竹屋先生が仰る。

 私に向かって仰っているのか、皆に向かって注意なさっているのか。

 その日、しょう子は何となくぼうっと靄に包まれたような気分のまま、授業を終えた。


 何か、何かがおかしい。

 しょう子は寮で、布団をかぶりながら考えていた。

 この学校の生徒たち……。いや、この学校自体?

 自分が以前通っていた学校とは何かが違う。

 具体的には指摘できないのだけど……。

 自身を相手に、しょう子は悶々と問答を続ける。

 棗、阿久里、薫子、碧……。

 生徒たちに、特に異常はない。

 いや、様子のおかしい時は数回あったが、あの程度ならどこでもあるようなことだ。

 先生……。

 竹屋先生はどうだろうか?

 今日、朝は機嫌が悪くとても怒っていらっした。

 碧さんと平野さんが揉めていたから?

 それだけ?

 怒っている、というよりもあれは、何かに脅えている、と言ったほうが良いような……?

 しょう子は考えている。

 自分でも、自分の疑問がぼんやりとしかわからないのだから、他人に相談するのは難しい。

 よほど気心が知れていないと――。


 午前の短い休みの時間、しょう子は思い切って声をかけてみることにした。

「ねえ、棗さん」

 なあに? と振り向く棗の陰鬱さとは無縁な微笑に、しょう子はそれだけで救われる思いがする。

「相談があるのだけど」

 しょう子はたどたどしく、説明を始めた。

「要するに、体調がまだ優れないの?」

 案の定、棗は要領を得ない顔をしている。

 そうなのだろうか? やはり自分に全ての原因が?

 いや、それだけではない。

 この学校、この場所に何かがあるはず。

 強く思えば思うほど、ズキズキ頭が痛む。

 頭の芯が。百会から泥丸に、渦を巻くように。

 この芯は、首を通り、胴を抜け、足下の地面を突きぬけて、冥府まで届いているかと錯覚するような――。 

 いやいや。余計なことは考えないように。

「そうだ、棗さん。以前、秘密のサークルがどうとか仰ってなかった? 薫子さんが……」

 何か関係があるかと思い、軽い気持ちで話し始めたのだが。

 やめて!

 と、低い声音で鋭い制止が飛んできた。

「そんな話をしたいの?」

 しょうがないわね、といった身振りをとりながら、

「こっちへいらっしゃいな」

 と、棗はしょう子を誘導する。人気のない廊下へと連れてこられた。

「あんな場所で、薫子さんのことを喋るなんて、どうかしているわね」

 まるで、目上の者が教えを説くような調子で話し始める。

 別に薫子さんのことを知りたいわけではないのだけど――。

 密かに思ったが、しょう子は逆らわなかった。

「何を知りたいの?」

「取り合えず、何をしているのか」 

 しょう子はこの、おかしな雰囲気の原因を知りたいだけなのだ。

 困った人ねえ、と棗はため息を漏らす。

 しかし、眉根を寄せながらでも、喋り始めたのは、内心打ち明けてしまいたい衝動があったのだろう。

「なんでもね、はんごんの研究をなさっているんですって」

「はんごん?」 

 しょう子は怪訝な様子で聞き返した。

 棗は、今までよりもさらに顔を寄せ、話しを続ける。

「死人をね、黄泉返りさせるの」

「? 生き返らせるの? 人を」

 正直、しょう子は面喰らっている。

「そりゃあそうよ。猫やお魚を生き返らせたところでしょうがないでしょう?」

 棗は少しズレた返事をした。

「どうしてそんなことを?」

 私も詳しくは知らないわ、と棗は唇の下に人差し指を当てて物思いに沈む。

「ただ、何十年か前……この学校が出来たてのころ、先生の一人が自ら命を断ったらしいの。その人を黄泉返らせようとしている、って話よ」

 なんでそんなことしてるのかは聞かないでよ、としょう子が口を開く前に、棗は言った。

「とにかく、昨日今日出来たサークルではないらしいの」

 話を聞いて、しょう子は考え込んでしまう。

 おそらく、そのサークルの行っていることが、この自分の感じている違和感につながっているのだ。

「ねえ、その会について……」

「おやめなさいな」

 棗はぴしゃりと言った。

「噂以上のものではないわ。そんな大時代なものに振り回されるなんて、愚の骨頂」

 あ、と一声上げて、しょう子は壁に凭れかかる。

 棗が、瞳を覗き込むように面を近づけてきたのだ。

「それにね、サークルに関わるのは、何かよくない気がするのよ」

 何かが――、繰り返しながら棗は、しょう子に身体をあずけるように、寄りかかる。

 甘い香りが、色のついた靄のようにしょう子の心に侵入し、その中心を痺れさせた。

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